制局監として要職を握る
- 会稽の人。劉宋代、細作金銀庫吏・竹局匠、元徽中(473-477年)射雉典事、監・莫修宗に従い郢に上った。世祖が盆城で沈攸之を防いだ際、留まって軍隊雑役に従事しその功で親任を得た。都に帰り石頭城監、東宮に転じ、世祖即位後は制局監、員外郎(南濮陽太守を帯びる)として殿内軍隊・外鎮への人事に関わり要勢があった。
- 越州刺史の欠員に自らの知人・費延宗を推挙し許可を得た逸話がある。永明中、皇帝の勅で親近の者による人事推薦は禁じられ、犯せば免官・鞭百のうえ寒人は処罰された。上(世祖)の性は尊厳で、呂文顯が殿側で咳をした際、茹法亮に不敬と訓詰させたため、左右は皆威を恐れて口を慎んだという。
- 当時、茹法亮は雑駆使と密勅の宣通、呂文顯は穀帛の事を掌り、他の舎人には別任がなかった。虎賁中郎将・潘敞が造営を監督した禅霊寺の完成に際し、呂文顯が私的に南門楼に登ったことが発覚し、潘敞は上方に繋がれ呂文顯は南譙郡に出された。後に済陽の江瞿曇・呉興の沈徽孚らが士流の舎人として通事のみを担ったが権利はなく、沈徽孚はやや筆才があり建武中の文詔の多くを起草し黄門郎に至った。
史論
- 史臣曰く、中世以来、天下の万機は碎密なため外司を経ず、尚書八座五曹に恒任があり九卿六府が副職を務め、いずれも冠冕搢紳の任は疎遠でも人は貴い。伏奏の務めは寝み趨走の労も減じたが、宣通の役は自ずと内外に切実な音旨となった。環纓斂笏して晨昏を俯仰し、幄座を瞻て竦躬し、蘭檻に陪して眄視する者は、恩色を探り求め威顔を習い見て、蘭が変じて鮑となるように次第に信を得、城社の固きに拠って壅塞を開く機を執り、長きにわたり主君の裘領を持って賞罰の繁事を漏らさぬようになれば、宮省の咳唾も必ず先に知り、望景に盈虚を窺い、龍の眠りに驪珠を得る如く、坐して声勢を得、臥して都鄙を震わせる。賄賂は日に積み苞苴は歳に通じ、富は公侯に擬え、威は州郡に行われる。制局の小司が兵力を専断し、雲陛天居に蘭錡を設け羽林精卒が広く衛る。元戎の出動には武侯が旗を還し道を清め、車駕の来往を督察し輦轂を駆役し、几案を親しく承って総成の規を示す。徴兵動衆や民役興行の際も、行留の儀・請託の権は彼らの手にあり、文符を断割し、軍役や追捕にまで及ぶ。害政傷民の蠧たること甚だしく、況して主が幼く時が昏いとなれば讒慝の害は数え尽くせない。
賛
- 賛に曰く、恩沢によって侯に封ぜられ、親倖は旧例となった。左右に煩わされる者は既に貴く且つ富む。