夷夏論の論争
- 顧歓、字は景怡、呉郡塩官の人。祖父の顧赳は東晋隆安末(401年頃)の戦乱を避け移住した。顧歓は6、7歳で干支を見て自ら六甲の理を悟る才を示した。家貧しく父に田の雀を追わせられたが、「黄雀賦」を作ったため父は撻とうとしてこれを見て思いとどまった。
- 郷里の学舎に授業料を払えず壁越しに聴講し、一言も漏らさず身につけた。8歳で『孝経』『詩』『論語』を暗誦。長じて学問に篤く、母は老いても自ら耕し、夜は糠を燃やして灯代わりにした。同郡の顧顗之に才を認められ、子弟とともに学ばせられ、後に豫章の雷次宗に玄学・儒学の諸義を諮った。母の死に際し6、7日水も喉を通さず、墓側に廬した後、剡の天台山に隠れて館を開き、常時100人近い弟子を集めた。幼くして父を失ったため『詩経』の「哀哀父母」の章を読むたびに慟哭し、以後弟子たちも「蓼莪篇」を講じなくなった。
- 太祖が輔政の際、その風教を悦んで揚州主簿に徴し、中使を遣わして迎えたが、即位に至ってようやく応じ、山谷の臣を称した。上表して「網を挙げるには綱を提げ、裘を振るうには領を持つべきで、道徳は綱、物勢は目である。上が綱を理めれば万機は序をもって治まり、下が目を張れば庶官は空しくならない。湯武は道を得て師とし祚を延ばし、秦項は勢いに任せて身を滅ぼした」と論じ、老子の教えを撰した「治綱」一巻を献じた。詔にて答え、麈尾と素琴を賜った。
- 永明元年(483年)、太学博士に徴されたが晩年は人との交わりを絶ち、毎朝戸を出ると山鳥がその手のひらに集まり餌を食んだという。黄老の道と陰陽の術に通じ数術に験があった。元嘉末(453年頃)、都に寄寓中「三十年二月二十一日」と柱に記したが、これは東還後の後廃帝弑逆の年月に当たったという。自ら死期を悟り詩を賦して「精気は天に従い行き、遊魂は物に随い化す」と詠み、剡山で64歳で卒した。旧墓に葬られ木が連理をなしたという。
- 夷夏論: 世祖の詔により子に文議30巻を撰させた。仏道二教の徒が互いに教えを非難する中、顧歓は「夷夏論」を著した。道経は「老子が函谷関を出て天竺の維衛国に入り、王妃・浄妃の口に入って後年4月8日に生まれ、七歩歩んで仏教が興った」と説き、仏経は「釈迦は塵劫の昔から国師道士儒林の宗として現れた」と説く。両経の説くところは符合しており「道即ち仏、仏即ち道」であるが、聖跡は符合しても跡形は反対であり、それぞれの風俗・儀礼(端委搢紳の華・翦髪曠衣の夷俗、棺槨埋葬と火葬水葬の違い等)は異なる。仏道は窮まりなく展開する世界において聖人が代わる代わる興り、教化の対象に応じて姿を変えるのは、舟車がともに遠くへ至るが川陸で用法が異なるようなものであり、中華の性に西戎の法を用いるのは不適切であるとし、儒教の孝敬の教えが仏法により屈するのを批判した。ただし「道と俗、どちらに寄るかで是非が分かれる」とし、道教擁護の立場を鮮明にした。
- これに対し劉宋の司徒・袁粲は道人「通公」に仮託して反論し、「日食・彗星などの瑞祥は老子入関以前の事象であり、老莊周孔は釈迦の余光に過ぎない」と論じた。顧歓は「道経は西周、仏経は東漢に始まり、800年余の隔たりがある。黄老が古いことをもって釈迦に先行すると論じるのは呂尚の名を借りて陳恒の斉を、劉季の名を借りて王莽の漢を論じるようなものだ」等、詳細に反駁した。両者の応酬は長く「往復文多く載せず」とされる。
- 明僧紹も「正二教論」を著し「仏はその宗を明らかにし、老はその生を全うする」と論じ、道家の「長生不死」を老莊本来の趣旨に反すると批判した。文恵太子・竟陵王・子良は仏法を好み、道士の孟景翼が仏を礼することを拒み「正一論」を著して仏道の一致を説いた。司徒従事中郎の張融も「門律」を著し「道と仏は窮極において二つではない」と説き、周顒との間で「虚無」と「法性」の異同をめぐる論争があった。
- 顧歓は口下手だが著述に優れ、「三名論」は鍾会の「四本論」に比された。『易』の二繋にも注を付し、学者に伝わった。始興の盧度も道術で知られ、張永の北征に従い虜に追われた際「助かれば殺生を絶つ」と誓い、二枚の楯が流れ着いて渡河できたという逸話があり、西昌の三顧山で隠棲し鳥獣を手懐けた。永明末に天寿を全うした。
- 永明三年(485年)には驃騎参軍の顧惠胤も司徒主簿に徴されたが応じなかった(惠胤は覬之の弟の子)。