総叙
- 易に「君子の道は四つあり」というが、そのうちの一つが語黙(出処進退)である。廟堂に入って世に出る者もいれば、江湖に隠れて永く帰らぬ者もあり、隠逸の情は千差万別である。仁義の桎梏を解き、天地に神を形すれば、名教の外に別の風格が生まれる。堯の御代にも聖に非ざる人があり、孔門にも雞黍の客(隠者)がいた。孤高の節を掲げ、名利を軽んじ世俗と異なる道を行く者、あるいは全うすることを慮り、あるいは道が行われぬまま山沢に吟遊する者もある。いずれも宇宙を借りて心を成し、風雲を借りて戒めとし、志を求め道に達しようとする点では変わらない。ただ学問や芸業を伴わなければ樵夫と変わらない。ここに掲げる十余名は、仕えることを求めず退いても俗を譏らず、身を全うして道に沿った、逸民の模範というべき人物であり、「高逸篇」としてまとめる。
剡山三十年の隠棲
- 褚伯玉、字は元璩、呉郡銭唐の人。高祖の褚含は始平太守、父の褚逷は征虜参軍。若くして隠遁を志し、18歳で父が婚姻を決めた際、花嫁が前門から入ると褚伯玉は後門から出て剡の瀑布山に隠れた。寒暑を厭わぬ体質で王仲都に比され、山中に30余年、人と交わらなかった。
- 呉郡太守の王僧達が礼を尽くして招いたが、褚伯玉はやむなく郡に2泊しただけで、寧朔将軍の邱珍孫は王僧達への書で「褚先生は木食して王侯に仕えぬ人物、無理に留めるべきでない」と諭した。王僧達も「褚先生は白雲に遊ぶ人、久しく世俗と離れている」と応じた。
- 劉宋孝建二年(455年)、散騎常侍の楽詢が風俗視察の表で褚伯玉を推薦し徴聘されたが応じず、太祖即位後も呉会二郡から礼を尽くして迎えようとしたが辞退し、剡の白石山に太平館を建てて住まわせた。建元元年(479年)、86歳で卒し、住んでいた楼のまま葬られた。孔稚珪が道法を受け、館の側に碑を建てた。