南齊書卷五十三 列傳第三十四 孔琇之

厳格な法治

  • 孔琇之、会稽山陰の人。祖父の孔季恭は光禄大夫、父の孔霊運は著作郎。国子生から孝廉に挙げられ、衛軍行参軍・員外郎・尚書三公郎を経て烏程令として吏才を発揮し、通直郎に遷り、呉令として名を上げた。
  • 十歳の子どもが隣家の稲一束を盗んだ事件で獄に付して処罰し、諫める者に「十歳で盗みを働く者は、成長すればどんなことでもする」と答え、県内は震え粛然とした。
  • 尚書左丞に遷り職務で知られ、前軍将軍(少府を兼ねる)、驍騎将軍(少府如故)を経て寧朔将軍として出、髙宗(蕭鸞)の冠軍征虜長史・江夏内史を歴任。正員常侍(左民尚書・廷尉卿を兼ねる)に還り、臨海太守として清約な治績を挙げた。
  • 郡を罷める際に乾姜20斤のみを献上したが、世祖はそれを少ないと訝りつつも孔琇之の清廉を知って歎息した。武陵王前軍長史に任じられるも拝任前に輔国将軍・監吳興郡に転じ、まもなく太守を拝して清厳な治績と称された。髙宗の輔政期、諸藩を厳しく統制する任にあたり、隆昌元年(494年)、寧朔将軍・晋熈王冠軍長史(行郢州事・江夏内史)に遷ったが辞退し、拝任前に卒した。

史論

  • 史臣曰く、琴瑟の調子が狂えば張り直すべきである。魏晋以来、吏道は漢と異なり、苛酷な風は衰えたが仁愛の情も薄れた。峻法・常条をもって一世の仁を求めるのは急に過ぎる。公を先とし私を後にすることは難しく、民を思い国を奉じることもたやすくない。目先の利欲に流され貪って官を敗る者が跡を絶たないのは、この故である。奸偽を摘発するには非凡な識見が必要だが、名を残し績を著すには結局のところ廉平のみが要である。今の世の治民の道もこれに勝るものはない。

  • 賛に曰く、蒸蒸たる小民に、吏職は最も身近な存在である。乱を治め、隠れた苦しみを憐み、仁に帰し、枉直の間を調整する。寛猛は代わる代わる現れるが、要は身を清くして民を導くことにある。