南齊書卷五十三 列傳第三十四 裴昭明

礼制の考証と清貧

  • 裴昭明、河東聞喜の人。劉宋の太中大夫・裴松之の孫、父の裴駰は南中郎参軍。少くして儒学・史学を修め、泰始年間(465-471年)に太学博士となった。
  • 太子の婚礼における納徴の礼で玉璧・虎皮を用いる根拠が不明であった際、裴昭明は「納徴の庭実は鹿皮であり、晋の太子納妃では虎皮を用いた。太元中の公主納徴では虎豹皮各一を用いたが、婚礼にそぐわない」と議し、経典に照らして正すべきと主張した。有司はこれを容れ、珪璋・豹熊羆の皮各二を加えることとした。
  • 元徽年間(473-477年)に長沙郡丞に出、任を解かれる際、刺史の王蘊が「清貧なあなたに帰る資がないだろう。湘中の有力者に頼めば助けがある」と申し出たが、裴昭明は「邦佐の身で上府の益とならぬのに、私事で清風を汚すことはできない」と断った。
  • 祠部通直郎を歴任し、永明三年(485年)に北虜への使者を務め、世祖から「帰還後は一郡を賞す」と約され、始安内史となった。郡民の龔玄宣が神人から玉印玉板を授かったと偽り民衆を惑わしていたのを裴昭明は獄に付し処罰したが、帰還後は極めて貧しく、世祖が「裴昭明は郡を罷めても家すら無い。書に暗い私は、古人の誰に比すべきか分からない」と述べた。
  • 射声校尉に遷り、九年(491年)に再び北使を命ぜられた。建武初年(494年)、王玄邈の安北長史・広陵太守となったが、明帝は在任中に何も上奏しなかったことを咎めた。裴昭明は「要職を争いたくなかっただけです」と答えた。歴任した郡はいずれも勤績があり、常々「人生に蓄財は不要。一身の外に何を求めようか。子孫が不才なら財は散り、自ら立てるならば財に頼らずとも良い」と語り、終生産業を営まなかった。中興二年(502年)に卒した。
  • 従祖弟の裴顗、字は彦斉。泰始中(465-471年)、総明観の講筵で劉秉に席を譲らなかったため、劉秉に参軍として登用された。昇明末(479年)に奉朝請となったが、斉台建国に際し世子妃(裴妃)の外戚譜に名を連ねることを拒み分籍した。太祖受禅の際に上表して誹謗し、冠を掛けて去り、誅殺された。