吏才と山陰の治
- 沈憲、字は彦璋、呉興武康の人。祖父の沈説は巴西梓潼二郡太守、父の沈璞之は北中郎行参軍。州の辟召で主簿となり幹局があるとされ、臨湘・餘杭令、巴陵王府佐(襄令を帯びる)、駕部郎を歴任した。
- 宋明帝と囲碁を打った際、「卿は広州刺史の器だ」と評された。烏程令として治績著しく、太守の褚淵は「方円自在の人材」と称賛した。通直郎・都水使者を経て吏事に長じ、正員郎・呉令・尚書左丞を歴任。
- 昇明二年(478年)、西中郎将の蕭晃が豫州となった際、太祖により晃の長史・南梁太守(行州事)に抜擢された。豫章王諮議に遷るも坐事で免官、後に安成王冠軍・武陵王征虜参軍・少府卿を歴任。少府は市易を掌る要職で、吏才ある者が任じられた。王儉の鎮軍長史に遷り、武陵王曄の会稽刺史時代には左軍司馬となった。
- 太祖が山陰の戸口の多さから県を分割しようとした際、世祖は「県は治まらないのではなく人材の問題だ」と啓し、沈憲を山陰令に帯びさせると評判が高まった。孔稚珪は「沈令の裁定には天才がある」と評した。寧朔将軍・王敬則が会稽となった際も沈憲は留任し、鎮軍長史・冠軍長史(行南豫州事)・晋安王後軍長史・広陵太守を歴任。西陽王子明が南兗州となった際も冠軍長史・太守として留任し州府の事を頻りに行った。
- 永明八年(490年)、子明の典籤・劉道済が府州の人夫50人を私用に使い贓私百万に及んだため有司の奏で世祖が怒り劉道済を賜死としたが、沈憲は監督不行き届きの罪で免官された。まもなく長史・輔国将軍に復し、疾により去官、散騎常侍に除されたが拝任前に卒した。当代、良吏と称された。
- 同郡の邱仲起は晋平郡で清廉を貫き、褚淵から「欲を見て心を乱さぬのは楊震の遺徳」と称された。仲起、字は子震。沈憲の従伯・領軍の寅之に評価された人物で、劉宋元徽中に太子領軍長史となり廷尉に至って卒した。