廉吏の実践
- 劉懐慰、字は彦泰、平原平原の人。祖父の劉奉伯は元嘉中に冠軍長史、父の劉乗民は冀州刺史。劉懐慰は初め桂陽王征北板行参軍となり、父が義嘉の変(454年頃)で没すると喪に服し、酢や醤も口にせず冬でも綿入れを着ず、孤弟妹を養い寡叔母に仕えた。
- 邵陵王南中郎参軍・広徳令・尚書駕部郎を歴任。同族の劉善明らとともに太祖の腹心となった。沈攸之と旧交があり、その離反を諫める書を出し太祖に称賛された。
- 歩兵校尉となり、斉国建国に際し京邑近くに斉郡を置く議で、江右の沃地・流民の帰属地である瓜歩に治所が決まると、輔国将軍・斉郡太守に任じられた。太祖から「斉は王業の基だ」と直々に委任され、手勅で玉環刀を賜った。
- 郡に着任後、城郭を修め民を集め、廃田200頃を開墾し、沈湖を決して灌漑した。礼物を受けず、新米一斛の贈答を辞退し、自らは麦飯を食べていることを示して「朝食はまだ余りがある」と述べ、「廉吏論」を著して意を示した。太祖は手勅で褒賞し、秦沛二郡の督に進めた。妻子は都に残り米300斛を賜与された。兗州刺史の柳世隆はその治績を「膠東の流化・潁川の美と並ぶ」と評した。
- 郡在任2年で正員郎(青冀二州中正を領す)に遷った。もとの名は聞慰だが、世祖(蕭賾)即位後に舅の名と同じであったため改名を命ぜられた。東陽郡を監し民に安んじられ、安陸王北中郎司馬を兼ねた。永明九年(491年)、45歳で卒した。明帝は僕射の徐孝嗣に「劉懐慰が朝廷にいれば清吏に事欠かなかった」と語った。劉懐慰は済陽の江淹・陳郡の袁彖と親交があり、文翰にも優れ、永明初年に「皇徳論」を献じた。