清廉の諫言
- 虞愿、字は士恭、会稽余姚の人。祖父の虞賚は給事中・監利侯、父の虞望之は早世した。虞賚の庭の橘が熟しても子孫が競って取る中、幼い虞愿だけは取らず、家人に異とされた。
- 元嘉末年(453年頃)に国子生となり、湘東王国常侍・潯陽王府墨曹参軍を経て、明帝(劉彧)即位後、儒吏として重んじられ太常丞・尚書祠部郎・通直散騎侍郎(五郡中正を領す)・祠部郎に任じた。
- 明帝は肥満と風を嫌い、夏でも毛皮の小衣を着し、風向を報告させる役を置き、天文の異変を信じず外奏を聞かない一方、霊台の官に密かに星を観させ虞愿と併せ確認させた。
- 明帝が旧宅に湘宮寺を建立した際、孝武帝の荘厳刹(七層)を超える十層を望んだが分けて両刹各五層とした。新安太守の巣尚之がこれを大功徳だと称えたのに対し、虞愿は「この寺は百姓が子を売り妻を質に入れた金で建てられた。仏に知があれば悲しむだろう。罪は高い仏図に等しく、何の功徳があろうか」と諫め、居合わせた尚書令の袁粲は色を失った。帝は怒って虞愿を殿から追い出させたが、虞愿は動じることなく、旧恩により間もなく召し戻された。
- 帝は囲碁が下手で、実力は三品程度ながら一品の王抗と対局し、王抗が常に譲って「陛下の碁は臣には及びません」と言うのを帝は真に受けていた。虞愿は「堯は丹朱にこのようなことを教えなかった。君主が好むべきことではない」と諫めたが、帝は改めず、それでも異例の恩寵を受け続け、兼中書郎に遷った。
- 帝の病中、虞愿は近侍して医薬に仕えた。帝は「逐夷」という食物を好み、蜜漬けにして何鉢も食したが、食べ過ぎて腹満・気絶しかけ、酢酒数升を飲んでようやく治まるも、以後も水患が続き薬効なく崩じた。
- 服喪の後、正員郎から晋平太守に出た。前任の太守は民から負債を取り立てていたが、虞愿はこれを取り戻させた。郡内に学堂を建てて教育を行い、郡に産する髯蛇の胆(薬用)を献じられても殺さず放したところ、蛇は幾度も戻ってきたため、遠方まで放して初めて戻らなくなった。人々はこれを仁心の致すところと評した。
- 海辺の「越王石」は清廉な太守でなければ見えないという伝説があったが、虞愿は視察して曇りなく見えたという。後任の琅邪の王秀之は「この郡は虞公の善政の遺風が残る」と評した。母の老いを理由に辞職し、後軍将軍・褚淵がしばしば訪ねた際、寝床に塵が積もり書物ばかりあるのを見て「虞君の清廉はここまでか」と嘆じ、掃除をして去った。
- 中書郎(東観祭酒を領す)に遷った。兄の虞季が上虞令のまま卒した際、詔を待たず徒歩で帰郷した。後に驍騎将軍・廷尉祭酒(如故)を歴任。宋明帝に仕えた縁で、斉初に宋の神主が汝陰廟へ遷される際、涙を流して拝辞した。
- 建元元年(479年)、54歳で卒した。『五経論』を著し、『会稽記』を撰し、文翰数十篇を残した。