南齊書卷三十七 列傳第十八 虞悰

虞悰、字は景豫、㑹稽餘姚の人(?–499年、享年六十五)。至孝の性質で知られ、世祖がまだ貧しかった頃から国士として遇し財を分け与えた旧友。料理に巧みで、篤実な人柄で終始変わらぬ態度をとったと称された。

年表(4件)

出自と世祖との旧誼

  • 虞悰、字は景豫、㑹稽餘姚の人。祖父の虞嘯父は晉の左民尚書、父の虞秀之は黄門郎。悰は幼くして謹厳で至孝の性質があり、秀之が都で亡くなると悰は東へ帰る途中断食するほど嘆いた。州辟の主簿・建平王參軍・尚書儀曹郎・太子洗馬・領軍長史・正員郎を歴任し、州治中・別駕・黄門郎に至った。世祖がまだ官も貧しかった頃から悰は国士として遇し、しばしば財を分け与え、外出には必ず世祖を同乗させた。世祖はこの恩を深く徳とした。
  • 昇明中、世祖が中書となった際、悰を諮議參軍に招き、吏部郎江謐に手書を持たせ「今、江吏郎に託して伝える、君の情誼を思い共に事を為したい」と伝えた。建元初、太子中庶子に転じ、後軍長史・領歩兵校尉・鎮北長史・寧朔將軍・南東海太守に遷り、まもなく豫章内史・將軍はもとのままとなった。悰は家を治め富を殖やし奴婢に遊手の者なく、南方の任地にありながら㑹稽の海産をことごとく取り寄せた。輔國將軍・始興王長史・平蠻校尉・蜀郡太守に遷り、司徒司馬・將軍はもとのままに転じた。悰は料理に巧みで調味の法をよく心得ていた。豫章王嶷が盛大な饗宴を催した際「今日の料理に何か欠けたものはないか」と問うと、悰は「黄頷&KR0796;(何曽の食譜に載る珍味)がないのが残念です」と答えた。
  • 散騎常侍・太子右率に遷る。永明八年(490年)大水の際、百官が甲冑で太廟の救援に赴いたが、悰だけは朱衣で車に乗り儀仗を連ね宣陽門外を行馬内で駆けさせ人を打ったことで有司に奏されたが赦された。上は悰が旧友であることから「私は必ず卿に祖業を再興させよう」と語り、侍中に転じ、朝廷は皆その美事に驚いた。祠部尚書に遷り、世祖が芳林園に行幸し悰に扁米粣を求めると、悰は粣とその他の料理数十荷を献じ、太官の料理も及ばなかった。上が悰に料理の秘法を求めても悰は秘して出さず、上が酔って体調を崩した際には醒酒鯖鮓の一方だけを献じた。
  • 冠軍將軍・車騎長史に転じ、度支尚書・領歩兵校尉に遷る。鬱林王即位後、右軍將軍・揚州大中正に改め領し、兼大匠卿として休安陵を陵所に築いた際、局下の牛酒を受けたことで免官となった。隆昌元年、白衣のまま職を領した。鬱林王が廃されると悰はひそかに嘆じ「王(王晏)・徐(徐孝嗣)は結局天子を袴で縛って廃してしまった、天下にこのような道理があろうか」と語った。延興元年、右軍將軍に復した。明帝が即位すると悰は病と称して列に加わらず、帝は尚書令王晏に廃立の事情を示させ、悰が旧臣であるため協力を求めたが、悰は王晏に「主上は聡明で公卿も力を尽くしておられる、老いぼれの私が新政を助ける必要がありましょうか」と答え固辞した。朝議はこれを糾弾しようとしたが、僕射徐孝嗣が「これも古の直臣の遺風だ」と言い議はやんだ。
  • 悰は病篤しと称して東(㑹稽)に帰り、上表して「私は卑賤の生まれで身は微賎、たまたま盛運に遇い過分の恩顧を受けましたが、遠く年月を重ねてもついに恩に報いられず、養生を誤り病に臥せること早くも十日余り、たびたび治療を受けても癒えません。この衰えた身では回復し難く、職を辞し余生を養生に充てたく存じます」と願い出た。詔により百日の休暇を賜り、給事中・光禄大夫に転じ、まもなく正員常侍を加えられた。永元元年(499年)に没した。享年六十五。悰は篤実な性格で、知人には必ず訪問を欠かさず親疎を問わず終始変わらぬ態度をとり、世に称された。従弟の虞袤は仕官の志を持たず、王敬則の乱の際、袤を㑹稽郡の監となしたが軍事はすべて寒門出身の張靈寳に委ねられ、郡人が郡を攻め靈寳を殺した際、袤は事に関わらなかったため難を免れた。