南齊書卷三十二 列傳第十三 褚炫

清簡な人柄と栄進

  • 褚炫、字は彦緒、河南陽翟の人。祖父・秀之は宋の太常、父・法顕は鄱陽太守。兄・炤(字は彦宣)は若くして高節を守り、片目が不自由で国子博士に至るも拝さず、従兄・淵が二代(宋・斉)に仕えたことを常に非としており、淵が司徒に拝したと聞いて「淵が中書郎で死んでいれば名士として恥じぬはずだったのに、名徳が振るわぬまま長寿を得てしまった」と嘆いたという。
  • 褚炫は若くして清簡で、従舅の王景文に認められ、従兄・淵は人に「弟(炫)の廉潔は独立していて私の十倍だ」と語った。宋の義陽王・昶が太常として褚炫を五官に補し、太子舎人・撫軍車騎記室・正員郎を歴任した。
  • 宋の明帝が雉狩りで日中まで獲物を得られず恥じ入り侍臣に問うた際、答える者がいない中、褚炫独り「今の季節は適時だが霧がまだ濃く、雉の警戒心が緩んでいないだけです、駕を巡らせるだけでも人々は喜びましょう」と答え、帝の機嫌は直り、雉場で酒宴を開いた。
  • 中書侍郎・司徒右長史を経て、昇明初、清廉な志を評価され劉俁・謝朏・江斅と共に殿中で文義に侍り「四友」と称された。黄門郎・太祖の驃騎長史・侍中を経て再び長史となり、斉臺が建つと再び侍中・領歩兵校尉となったが家貧のため建元初、東陽太守に出て秩中二千石を加えられ、戻って再び侍中・領歩兵、計三度の侍中を務めた。
  • 竟陵王征北長史・輔国将軍を加え、まもなく冠軍長史・江夏内史・将軍のまま。永明元年(483年)、吏部尚書。褚炫は清廉な生活を保ち弔問以外の交遊を持たず世に称えられたが、選部にあってもその門庭は寂しく賓客もまれで、出行の際に従者が捧げる黄紙帽箱は風に吹かれて紙が剥がれ果てたという。
  • 江夏から戻った際に得た銭十七万は石頭で親族に分け与えた。病を得ても薬を買う金がなく、上表して解職を求め、散騎常侍・領安成王師・国学建立に際し本官のまま博士を領する任を得たが拝さぬまま卒し、殯歛の費用もなかった。享年四十一。太常を追贈され諡は貞子。