南齊書卷三十二 列傳第十三 張岱

張岱(字は景山、呉郡呉の人)。兄弟五人が「張氏五龍」と称された名族出身。清廉で果断な政治家として宋・斉に歴仕し、幼主を輔弼する諮議参軍や刺史を歴任、晩年は呉興太守として寛恕の政で名を挙げた(享年七十一)。

年表(1件)

清廉な家風と多任にわたる功

  • 張岱、字は景山、呉郡呉の人。祖父・敞は晋の度支尚書、父・茂度は宋の金紫光禄大夫。張岱は兄の太子中舎人・寅、新安太守・鏡、征北将軍・永、弟の広州刺史・辨と共に世に知られ「張氏五龍」と呼ばれた。
  • 鏡は若くして光禄大夫・顔延之と隣居し、延之が議論・飲酒で騒がしくしても鏡は静かに黙していたが、後に延之が籬の外で客との清らかな談話を聞き、感服して「彼には人物がいる」と語ったという。寅・鏡の名は最も高く、永・辨・岱はこれに及ばなかった。
  • 張岱は郡が上計掾に挙げたが赴かず、州の従事から南平王右軍主簿・尚書水部郎を経て東遷令に出た。呉興太守・殷冲は「張東遷は親が貧しく養う必要があり下邑に留まっているが、いずれ大成するだろう」と評した。随王・誕が会稽で挙兵した際、張岱は建威将軍・輔国長史・行県事となり、事後に司徒左西曹となったが、母が八十歳で戸籍上まだ養育期間が満たないとして官を辞し実家に帰って養った。有司はこれを制違反として糾弾しようとしたが、宋の孝武帝は「その過ちを見れば仁を知ることができる、詮議は不要だ」と評した。
  • 撫軍諮議参軍・領山陰令を歴任し職務は簡明であった。巴陵王・休若が北徐州で政務に未着手のうちは、張岱が冠軍諮議参軍・領彭城太守・行府州国事を務め、その後、臨海王が征虜広州、豫章王が車騎揚州、晋安王が征虜南兖州となった際、張岱はそれぞれ三府の諮議として歴任し、幼い王に代わり典籤・主帥と共に政務を担い成果を挙げた。ある人が「幼主に仕え多くの部署を掌握しながらも常に公私の和を保てるのはなぜか」と問うと、張岱は「古人は『一心をもって百君に事えられる』と言う、私は端正公平な政治を行い礼をもって人に接するので、悔恨の事が起こらない、明闇の巧拙は才用の多少によるに過ぎない」と答えた。
  • 黄門郎に入り驃騎長史・領広陵太守に遷る。新安王・子鸞が寵愛により南徐州を領し呉郡を割いた際、佐吏を厳選し、孝武帝は張岱を召して「卿の美しい功績は久しく著されており仕官も既に多い、今こそ子鸞の別駕として刺史の任を総べてもらいたい、小さな屈辱と思うな、いずれ大きく報われよう」と語った。
  • 帝崩御後、吏部郎に遷る。明帝初、四方が反乱すると帝は張岱の旧才幹を頼み、使持節督西豫州諸軍事・輔国将軍・西豫州刺史に除し、まもなく冠軍将軍・北徐州刺史・都督北討諸軍事に転じたがいずれも赴任しなかった。泰始末、呉興太守。元徽中、使持節督益寧二州軍事・冠軍将軍・益州刺史に遷り、数年にわたり益州は安治した。
  • 侍中・領長水校尉・度支尚書・領左軍に召還され、吏部尚書に遷る。王儉が吏部郎であった頃は曹事を専断し張岱としばしば意見を違え、儉が宰相となってからは互いに不和であった。兄の子・瓌の弟・恕が呉郡太守・劉遐を誅殺した際、太祖は恕を晋陵郡に任じようとしたが、張岱は「恕はまだ政務に習熟しておらず、美しい錦を粗末に裁つべきでない」と諫めた。太祖は「恕の人柄はよく知っている、瓌と同功だから当然賞すべきだ」と応じたが、張岱は「もし家の貧しさゆえの賜禄ならばともかく、功を語り事を推すのは我が門の恥である」と答えた。まもなく散騎常侍を加える。

建元以後の官歴と晩年

  • 建元元年(479年)、左将軍・呉郡太守として出向。太祖は張岱の歴任が清廉であったことを知り、赴任後まもなく手勅で「大邦は任重く、今すぐ交代を望むわけではないが、軍務が繁多で望実(人望と実績)を要する、卿を護軍に用いたい、給事中を加える」と伝えた。張岱の拝命後、上は自ら家を訪ねて病を見舞い、翌年金紫光禄大夫・領鄱陽王師に遷る。
  • 世祖即位後、再び散騎常侍・呉興太守(秩中二千石)となった。張岱は晩節、呉興で寛恕の政をもって名を挙げた。使持節監南兖兖徐青冀五州諸軍事・後将軍・南兖州刺史・常侍はそのままとして遷ったが赴任前に卒した。享年七十一。
  • 張岱は生前、遺命により家財を分けて箱に封じておいたが、家業が減るたびにその内容を改めることを十数年繰り返したという。本官を追贈され諡は貞子。