南齊書卷三十二 列傳第十三 王琨

王琨(琅邪臨沂の人)。晋の衛将軍王薈の孫。清廉倹約を貫いた官人で、広州刺史として俸禄の半分を献上するなど廉潔で知られた。宋・斉に歴仕し、太祖にも重んじられた(?–482年、享年八十四)。

年表(2件)

出自と清廉な官歴

  • 王琨、琅邪臨沂の人。祖父・薈は晋の衛将軍。父・懌は暗愚で、侍婢が生んだ子は崑崙と名付けられたが、これが王琨で、懌が後に南陽の楽玄の娘を娶り子がなかったため王琨を嗣子とした。若くして謹厚篤実で、従伯の司徒・謐に愛された。
  • 宋の永初中、武帝は王琨が桓修の娘を娶ったことにより郎中・駙馬都尉・奉朝請とした。元嘉初、従兄で侍中の華が寵を得たが門戸が衰弱していたため王琨を親族同様に扱い推挙し、尚書儀曹郎・州治中を経て左軍諮議・領録事に至り、宣城太守・司徒従事中郎・義興太守を歴任し、いずれも廉潔・倹約であった。
  • 北中郎長史・黄門郎・寧朔将軍・東陽太守を経て、孝建初に廷尉卿・竟陵王驃騎長史・臨淮太守を加え吏部郎に転じた。吏部の選局は貴要の請託が多かったが、王琨は公卿から士大夫に至るまで例外なく二人の門生を用いる決まりを守り、江夏王・義恭が二人の登用を求めた際にもこれに応じなかった。
  • 持節都督広交二州軍事・建威将軍・平越将軍・平越中郎・広州刺史として出向。広州は豊かな土地で歴代の刺史は巨富を得たと言われたが、王琨は何も収奪せず俸禄の半分を上表して献じ、州鎮の旧例であった鼓吹の返還も願い出た。離任時、孝武帝がその清廉を問い財産を尋ねると、王琨は「私邸を百三十万で買った程度」と答え、帝はこれを喜んだ。
  • 廷尉・給事中を経て寧朔将軍・長史・歴陽内史に転じ、上(孝武帝)は王琨の忠実さから寵愛する子・新安王の東中郎長史とし輔国将軍を加え、右衛将軍・度支尚書に遷り、永嘉王左軍・始安王征虜の二府長史(いずれも孝武帝の諸子)として輔国将軍・広陵太守を加えた。
  • 泰始元年(465年)、度支尚書に遷りまもなく光禄大夫を加える。従兄・華の孫・長が華の爵(新建侯)を襲ったが酒好きで過ちが多く、王琨は上表して嗣子を弟の息子・佟に改めることを乞い許された。冠軍将軍・呉郡太守に出向し中領軍に遷ったが、郡在任中に朝廷の銭三十六万を用いて二宮諸王への贈答や軍用の絳襖製作に充てたため光禄大夫に左遷された。
  • まもなく太常を加え金紫光禄大夫・散騎常侍を加える。廷尉・虞龢が社稷を一神とする議を出した際、王琨はこれを旧例に照らして反駁し、虞龢が深く寵愛されていたにもかかわらず朝廷は王琨の剛直を評価した。明帝崩御に際し督会稽東陽新安臨海永嘉五郡軍事・左軍将軍・会稽太守・常侍はそのままとして出向したが、囚人の処刑に誤りがあり冠軍の号を降格された。
  • 元徽中、金紫光禄・引訓太僕・常侍・本州中正・特進を経て、順帝即位後、右光禄大夫・常侍。順帝が譲位した際、王琨は陪位・辞廟に涙を流した。太祖即位後、武陵王師を領し侍中を加え親信二十人を賜った。

王儉との逸話と晩年

  • 王儉が宰相であった頃、王琨に東海郡の迎吏の登用を頼んだ際、王琨は「郎(王儉)は三台五省すべてを用いる立場にあるのに、地方の小郡程度は寒賤な者に任せてほしい、それすら奪うのか」と使者に語り、結局その事は行われなかった。
  • 王琨は古風で慎み深く、倹約が過ぎるほどで家事の雑事も自ら手を下し、朝会には必ず夜半から早起きして衣服・冠幘の数を何度も確かめるほどで、世人はこれを笑った。まもなく王師を解かれた。建元四年(482年)、太祖崩御の報を聞いた時、牛が邸内におらず台から数里離れていたため徒歩で入宮した。朝士は「車を待つべきであった、国の体面に関わる」と諭したが、王琨は「今日の駆けつけは皆こうあるべきだ」と応じ、まもなく病を得て卒した。左光禄大夫を追贈され、享年八十四。