南齊書卷三十一 列傳第十二 荀伯玉
荀伯玉(字は弄璋、広陵の人)。太祖に随従して信任を得た腹心で、占卜や夢占いの逸話で知られる。皇太子(世祖)の東宮での不正を密告したことで世祖に深く恨まれ、太祖没後、垣崇祖の獄に連座して誅殺された(享年五十)。
太祖への随従と密告の功
- 荀伯玉、字は弄璋、広陵の人。祖父・永は南譙太守、父・闡之は給事中。若くして柳元景の撫軍板行参軍、南徐州祭酒、晋安王・子勲の鎮軍行参軍となった。泰始初、子勲の挙兵に際し友人・孫沖が将帥となり荀伯玉もその指揮下に属し新亭侯に封ぜられたが、事敗れて京師に戻り占卜を生業とした。
- 建平王・景素が荀伯玉を招いたが応じず、太祖が淮陰に鎮するとこれに帰服し、太祖の冠軍刑獄参軍となった。太祖が明帝に疑われ黄門郎として召されようとした際、深く憂慮する太祖に荀伯玉は数十騎を虜(北魏)の境に入れ標榜(目印)を立てさせることを勧め、これにより虜の遊騎数百がその境を巡回し、太祖はこれを知りながらなお留任できるか懸念して荀伯玉に占わせたところ、卦は成らず、しかし明帝の詔は果たして太祖を旧任に戻す結果となった。以来太祖の信任を得た。
- 太祖に従い京師に戻り奉朝請となり、荀伯玉は邸宅を管理し家事を知った。世祖が広興を離任し新たな邸宅を営む際、人を遣わし大宅の樹木数株を掘らせたが荀伯玉は与えず馳せて太祖に報告、太祖は「卿の対応は正しい」と評した。太祖の平南府・晋熙王府参軍に転じ、太祖が南兖州となると荀伯玉は上鎮軍中兵参軍・広陵令を帯び、羽林監に除せられたが拝さなかった。
- 太祖が淮南にあった頃、荀伯玉が広陵に帰省中に見た夢では、太祖が広陵城南楼上にあり、二人の青衣の童子が「草中に粛九五(帝位の意)追い迫る」と語り、城下の人々の頭上には皆草があったという。泰始七年(471年)にも、太祖が広陵北渚で船に乗り両腋に閉じた翼があるのを見た夢を見、太祖に「いつ開くのか」と問うと「三年後」と答え、荀伯玉が自ら呪師となり六度呪すると六龍が両腋の翼を開いて現れ、また閉じたという。
- 元徽二年(474年)太祖が桂陽王の乱を破って威名を大いに震わせ、五年(477年)に蒼梧王を廃した際、太祖は荀伯玉に「卿の時の夢が今まさに効を現した」と語った。
太祖・世祖期の官歴と密告
- 昇明初、太祖の驃騎中兵参軍、歩兵校尉に除せられたが拝さず、済陽太守を帯び中兵はそのまま。覇業が成ると荀伯玉は忠勤を尽くし常に側近を護衛、前軍将軍を加え太祖の太尉府に従い、中兵将軍・太守はそのまま。
- 建元元年(479年)、南豊県子(封邑四百戸)に封ぜられ、輔国将軍・武陵王征虜司馬・太守はそのまま。安成王冠軍司馬に転じ、さらに豫章王司空諮議・太守はそのまま。
- 世祖が東宮にあった頃、専断で法に従わぬところがあり、側近の張景真に東宮の主衣・食官の榖帛・賞賜什物を任せていたが、景真はこれらを自ら着用・使用し、南澗寺での捨身斎会に元徽年間の紫皮袴褶等を用い、楽遊での宴会では伎人に皆御衣を着せ、また糸絹を崑崙の商船に融通して私利を図り、伝令を使って南州津の関所を通過させた。世祖が陵墓参拝から戻った際、景真は白服で画舴艋(飾り船)に乗り胡床に座って見物し、周囲は太子ではないかと疑ったが、宮中の内外は恐れて誰も言い出さなかった。
- 荀伯玉は親しい者に「太子の所業は上(太祖)が結局知らぬはずがない、死を顧みて上の耳目を蔽ってはいられない、私が奏上せずして誰が奏上するのか」と語り、世祖の陵墓参拝の後、密かに上奏した。太祖は大いに怒って東宮を検校させた。世祖が方山から夜遅く戻ろうとした際、豫章王が飛燕(速い馬車)に乗り東へ出迎え、太祖の怒りの様子を伝えた。世祖は夜に帰り、太祖も門の鍵を閉ざして待ち、二更が尽きた頃ようやく宮に入った。
- 翌日、太祖は文恵太子と聞喜公・子良に景真の罪状を示し世祖に伝えさせ、太子の命として景真を捕らえ殺させた。世祖は憂懼して病と称し月余りも参内せず、太祖の怒りも解けなかったが、王敬則が太陽殿に直入して「陛下が天下を得て日浅く、太子が無為に責められては人心が恐れる、どうか東宮へ赴いて解きほぐしていただきたい」と叩頭して奏上した。太祖は東宮へ幸し諸王以下を玄圃園に召して家宴を催し酔うまで過ごしてから戻った。
- 上は荀伯玉の尽忠を嘉し、いっそう親信を厚くし、軍国の密事も多く委ねた。当時の人は「十の勅・五の令よりも荀伯玉の言葉一つの方が重い」と語ったという。世祖はこのことを深く怨んだ。太祖は臨終に際し荀伯玉を指して世祖に「この者は私に忠実に仕えた、私の死後、人は必ず彼を讒言するだろうがお前は信じるな。東宮の長侍に留め、白沢(地名か官職か明示せず)を経て少し落ち着かせてから南兖州に処すがよい」と語った。
晩年と死
- 荀伯玉は父の喪に遭い、冠軍将軍・南濮陽太守に除せられたが拝さず、黄門郎・本官のまま。世祖の代になると豫章王太尉諮議・太守はそのまま、まもなく散騎常侍・太守はそのままに遷った。荀伯玉は憂懼して為す術がなかったが、上(世祖)はこれを聞き、荀伯玉が垣崇祖と親しく共謀して乱を起こすことを懸念し、意を用いて撫育したため荀伯玉は安堵した。
- 永明元年(483年)、垣崇祖が誅されると荀伯玉も共に伏法した。かつて墓相を善くする者が荀伯玉家の墓を見て父に「にわかに貴顕を出すが長く続かない」と語ったといい、荀伯玉は後にこれを聞いて「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり(孔子の言)」と語った。死した時、五十歳であった。
史論
- 史臣は言う。君主が老いても太子に仕えないというのは義烈の遺訓であり、専心して仕える対象は節を守り二心を持たぬことにある。人の子としての親愛の情であっても自ずと区別すべきであり、偏った党派に肩入れするのは論外である。江謐・荀伯玉の行いはその術こそ違えど、共に身を滅ぼした点では同じであり、古の道をもって今の世に居ることの難しさを免れなかったといえよう。
賛にいう。江謐は口が禍の門となり、荀伯玉は言葉を尽くし切った。時が清明で主が異なれば、二人はともに合して同じく滅んだのである。