駙馬から吏部尚書へ
- 何戢、字は慧景、廬江灊の人。祖父・尚之は宋の司空、父・偃は金紫光禄大夫で宋武帝に重用された。何戢は山陰公主を娶り駙馬都尉に拝し、秘書郎・太子中舎人・司徒主簿・新安王文学・秘書丞・中書郎を歴任した。
- 景和年間、山陰公主が帝に吏部郎・褚淵を求めたが、淵は召されても拘束されつつも従わず、何戢と共に一月余り過ごすことで特に情誼を通じた。明帝即位後、司徒従事中郎に遷り、建安王・休仁の赭圻征討に従い司馬に転じ、黄門郎に除せられ宣威将軍・東陽太守・吏部郎に出向した。
- 元徽初、褚淵が朝政に参与すると何戢を侍中に引いたが、その時二十九歳であった何戢は年齢がまだ三十に満たぬことを理由に固辞し、上表を重ねてようやく議は許され、司徒左長史に改任された。太祖が領軍であった頃、何戢と親しく交遊し、上(太祖)が水引餅(麺料理)を好んだ際、何戢は婦人に自ら調理させて上に供した。
- 再び侍中となり、安成王車騎長史・輔国将軍・済陰太守・行府州事に遷り、呉郡太守に出向したが病により帰任、侍中・秘書監・中書令、太祖相国左長史を歴任した。建元元年(479年)、散騎常侍・太子詹事に遷り、まもなく侍中・詹事に改められた。
- 上(太祖)は何戢を吏部尚書に転用しようと尚書令・褚淵に問うたところ、淵は何戢の資望の重さから常侍を加えようとしたが、宋代の王球が侍中・中書令から単に吏部尚書となった先例を引き、頃日の選職が軽んじられているとはいえ、常侍を頓に加えるべきではないと論じ、また上の意向が蟬冕(貂蟬の冠、常侍の象徴)を過剰に授けないことを重んじていること、自分(淵)と王儉が既に常侍を得ているため何戢にまで加えれば八座に三貂となる不釣り合いを説いた。結局、何戢は驍騎将軍を帖して吏部尚書となった。
- 何戢は容儀に優れ立ち居振る舞いが褚淵に似ており、時人は「小褚公」と呼んだ。家業は富み奢侈を好み、衣服・装飾は極めて華麗であった。永明三年(485年)、左将軍・呉興太守に出向。上(世祖)は画扇を好み、宋の孝武帝が何戢に賜った蟬雀扇(顧景秀の作)を、王晏を通じて上に献じ、上は王晏にその厚遇を命じた。同年、三十六歳で卒し、散騎常侍・撫軍・太守を追贈され諡は懿子。娘は鬱林王の皇后となり侍中・光禄大夫が追贈された。