南齊書卷二十九 列傳第十 周山圖

周山図、字は季寂、義興義郷の人(?–永明元年、享年六十四)。貧しい身から立身し、田流・張鳳ら反乱の討伐や沈攸之討伐で軍才を発揮、太祖の信任を得て辺境防衛を長く担った。

年表(6件)

出自と泰始年間の武功

  • 周山図、字は季寂、義興義郷の人。若くして貧しく傭書で身を立てたが気力があり、呉郡・晋陵の防郡隊主となった。宋の孝武帝が太初山を討伐した際、周山図は功により関中侯の爵を賜る。
  • 兖州刺史・沈僧栄が瑕丘に鎮する際、旧知の周山図を建武府参軍とした。竟陵王誕が広陵に拠って反すると、僧栄は周山図に二百人を率いさせ沈慶之の指揮下に入らせ、乱平定後の論功で中書舎人・戴明宝に功を抑えられた。
  • 泰始初、殿中将軍。四方が反乱する中、僕射・王彧が周山図を将領に推挙し、百艘の船を率いる前駆に任じた。軍主・佼長生らと湖・白・赭圻の二城を攻略し、員外郎・振武将軍に進む。濃湖の平定に与り西陽まで追撃し、明帝はこれを賞して苑西の邸宅一区を賜った。
  • 鎮軍将軍・張永が彭城で薛安都を征討した際、周山図は二千人を率いて武原まで運糧を助けたが虜騎に追撃された。合戦で多くの死傷者を出し、包囲が急となるも城に拠って持ちこたえ、決死の陣で突囲した。虜は退き、周山図は散卒千余人を収めて下邳城を守った。
  • 給事中・冗従僕射・直閤将軍。酒を好み度々明帝の叱責を受けたが改め、銭唐新城の戍を出た。豫州淮西の地が虜に奪われ歴陽に鎮が新設されると、泰始五年(469年)、龍驤将軍・歴陽令として城を守る。

田流・張鳳の討伐と虜との対峙

  • 臨海の亡命者・田流が東海王を自称し会稽鄞県の海辺山中に立て籠もり、官軍は討伐できずにいた。明帝は聞人襲を遣わして招降し田流に龍驤将軍を授けたが、田流は将党と共に海塩へ出て掠奪し、鄞令・耿猷を殺した。
  • 泰始六年(470年)、周山図は浹口に屯して募兵し田流の副将となったが、田流はその後別将・杜連・梅洛生に殺され、周山図は分兵してこれらを討伐平定した。
  • 豫章の賊・張鳳が康楽山に拠って江路を劫掠し、軍主・李雙・蔡保らの攻撃も年を越して成らず、軍主・毛寄生も豫章江の戦いで大敗した。明帝は再び周山図に討伐を命じ、周山図は疲兵と見せかけて幢主・龎嗣厚に張鳳を誘き出させ、望蔡で伏兵をもって張鳳を斬り、残党百余人を降した。
  • 寧朔将軍・漣口戍主として漣水を堰き止め西城を築いて虜騎の路を断ち、灌漑にも用いた。元徽三年(475年)、歩兵校尉・建武将軍を経て督高平下邳淮陽淮西四郡諸軍事・寧朔将軍・淮南太守。
  • 桓温の墓が盗掘され宝物が大量に得られた際、盗人が窃取して周山図に贈ったが、周山図は受け取らず官に返還した。左中郎将に遷る。

太祖への密告と沈攸之討伐

  • 太祖の輔政時、周山図は密かに「沈攸之には久しく異図あり、公は深く備えるべし」と啓上し、太祖は笑ってこれを納れた。
  • 武陵王・賛が郢州となった際、太祖の命で周山図は兵を率いて世祖を護送。世祖は晋熙王・燮と共に郢から下り、周山図は後方の防衛にあたった。
  • 沈攸之の乱が起こると世祖は西討都督となり、周山図を軍副として盆城に留守した。衆議は盆城が小さく守り難いとして遷都を求めたが、周山図は「今、中流に拠れば四方の勢を援ける。大衆が力を尽くせば川岳も城隍となし得る」と説いた。
  • 世祖は城局参軍・劉皆・陳淵を周山図の指揮下に置き、周山図は行旅船の板を徴発して楼櫓を造り水柵を立て、旬日で完成させた。前軍将軍・寧朔将軍を経て輔国将軍に進号。
  • 沈攸之が郢城を攻めた際、世祖は周山図に情勢の見立てを問うた。周山図は「攸之は隣郷の出で私とは幾度も共に征伐したが、その人となりは険しく刻薄で士心を結び固められない。堅城の下に頓兵すれば、それがかえって離散の兆しとなろう」と答えた。攻之は果たして敗れ、平西将軍・黄回が軽舟で盆城に近づき叫んだが、しばらくして黄回の凱旋と知れ世祖は安堵した。世祖は「周公の前言はまさに事の見通しに明るいものだった」と語った。

建元以後の辺境防衛と晩年

  • 都に還ると太祖は周山図に部曲を率い京城を鎮させ、諸軍の指揮権を与え、游撃将軍・輔国将軍のまま。建元元年(479年)、広晋県男に封ぜられ封邑三百戸。仮節都督兖青冀三州徐州東海朐山軍事・寧朔将軍・兖州刺史として出向し、百姓に慕われた。
  • 建元二年(480年)、輔国将軍に進号。その秋、虜が動く恐れがあるとの見立てから、太祖は周山図に「卿が辺を鎮め戎を慰撫することは巧みだ、応変の策は全て委ねる」と勅した。
  • 虜は果たして朐山を侵したが元玄度・盧紹之に淮陽で撃破された。淮北四州で義軍が起こると、太祖は周山図に淮を経て清に応援するよう勅し、激励の言葉を送った。しかし義衆は虜に敗れ、周山図は三百家を淮陰へ引き揚げさせ、東海郡の治所を漣口に移すことを上表、石鱉に陽平郡を新設し、いずれも許された。
  • 世祖践阼後、竟陵王鎮北司馬・南平昌太守を帯び、盆城以来の旧縁で殿省への出入りを許され厚く信任された。義郷県の風廟神(元は県令だった鄧氏)の霊験を上表して神位加増を乞うたが、上は「狗肉一つで済むことだ、階級など要らぬ」と答えた。
  • 黄門郎・領羽林四廂直衛に転じ、新林に別荘を営み朝夕行き来したため、上は「万人の都督を罷めて郊外を軽々に行き来するのはよくない、以後は仗身を伴え」と諭した。病を得ると上は自ら手勅を送り医薬を給した。永明元年(483年)、六十四歳で卒。朝服一具・衣一襲を賜る詔が下った。