出自と寿春攻略までの武功
- 呂安国、字は記されず、広陵広陵の人。宋の大明末に将領として抜擢され、思慮深く才幹があり、劉勔に評価された。
- 泰始二年(466年)、劉勔が寿春で殷琰を征討した際、建威将軍として勔の軍副となり、諸軍と共に殷琰配下の長史・杜叔宝の軍を横塘で撃破。呂安国は敵の糧道を断ち、輸送車を焼いて多数を殺傷、殷琰の軍は退却した。
- 勔は呂安国に先行して寿春に至らせ、殷琰が城門を閉じて守る中、輔国将軍・垣閎と共に城南に布陣。諸軍が到着し、呂安国は勲功第一として彭沢県男に封ぜられたが未拝。翌年、鍾武県に改封され封邑四百戸を加えられ、寧朔将軍・義陽太守に至る。
- 泰始四年(468年)、湘南県男に再改封。虜(北魏)が汝南・司州に侵入し陥落させると、呂安国は督司州諸軍事・寧朔将軍・司州刺史となる。同六年、義陽に州が立てられ義陽太守を兼任、右軍将軍・輔師将軍に進む。
- 元徽二年(474年)、晋熙王の征虜司馬・輔師将軍。翌年、游撃将軍に転じ、さらに持節都督青兖冀三州縁淮前鋒諸軍事・輔師将軍・兖州刺史として出向、翌年冠軍将軍に進号。
- 沈攸之の乱が起こると太祖(蕭道成)は呂安国を湘州刺史・征虜将軍とした。当時湘州は王藴が離任し混乱していたが、佩玉が韓幼宗を殺し、黄回配下の任候伯が佩玉をも殺すという内紛が続いた。太祖の命で呂安国は候伯を誅殺し、前将軍に進号。
- 太元元年(477年)、爵位を進め封邑六百戸を加増、右衛将軍・給事中。翌年、虜が辺境を侵すと呂安国は司州に出て民戸を安集させ、義陽西闗に屯し沔口に移屯した。世祖(蕭賾)即位後、使持節・散騎常侍・平西将軍・司州刺史・義陽太守を領す。
永明年間の栄進と晩年
- 永明二年(484年)、都督南兖兖徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南兖州刺史、あわせて都督湘州刺史。同四年、湘川の蛮が動くと督軍して討伐、病を得て光禄大夫・散騎常侍に召還された。
- 呂安国は文官の授与を喜び、子に「今後は袴褶ではなく単衣を着よ、朱衣の官となるべきだ」と語った。上(世祖)は中書舎人・茹法亮を遣わし「病を案じている、無理は要らぬ」と勅を伝えた。
- 翌年、都官尚書・領太子左率に遷り、永明六年(488年)に領軍将軍。累代の功により宿老として遇され、散騎常侍・金紫光禄大夫・兖州中正・扶を賜る。
- 上は再び茹法亮に「呂安国の病状では扶助は不要だが、礼を欠くのは忍びない。本人の意向を確かめよ」と勅した。永明八年(490年)、呂安国は六十四歳で卒。鎮北将軍・南兖州刺史・常侍を追贈され、鼓吹一部を賜り、諡は肅侯。
全景文――呂安国旧部の武功
- 当時の旧将帥にはほかに呉郡の全景文(字は弘達)がいた。若くして気力があり、沈攸之と共に上京する途中、奔牛埭で人相見に「あなたたちは共に方伯(州刺史)となる」と言われ、全景文は「富貴が一人にしか及ばぬなら、この予言は妄言だ」と沈攸之に語った。
- 孝建初、竟陵王の驃騎行参軍となり功により漢水侯に封ぜられ、員外郎・積射将軍を歴任。泰始二年(466年)、仮節・寧朔将軍・冗従僕射軍主として前将軍・劉亮に従い晋陵で東方の賊を破る。
- 長水校尉・仮輔国将軍として薛索児を破釡で討ち、水軍で敵の糧運を断つ功を立て、さらに太祖に従い葛冢・石梁で再戦し功を立てた。南賊との対峙で劉亮に隷属し劉胡を攻め、力戦して数十創を負った。
- 前軍将軍・孝寧県侯(封邑六百戸)、寧朔将軍・游撃将軍・仮輔師将軍・高平太守、鎮軍・安西二府司馬・驍騎将軍を歴任。元徽末、南豫州刺史・歴陽太守・輔国将軍として出向し、征虜将軍・南琅邪済陰二郡太守・軍主に転じた。
- 建元元年(479年)、佐命に与らなかったため封国は除かれ、南琅邪太守・常侍・将軍のまま光禄大夫・征虜将軍・臨川王征西司馬・南郡太守を歴任し、最後は給事中・光禄大夫に至った。永明九年(491年)卒。