南齊書卷二十九 列傳第十 周盤龍
周盤龍、北蘭陵蘭陵の人(?–永明十一年、享年七十九)。容貌は弱々しかったが戦場では勇猛果敢で知られ、子の奉叔と共に虜の大軍を撃退した逸話で名を馳せた。奉叔は隆昌元年に高宗により誅殺された。
出自と武功
- 周盤龍、北蘭陵蘭陵の人。宋代の土断で東平郡に属す。膽気人に過ぎ弓馬に長けた。泰始初、赭圻の賊討伐に従軍し自ら陣頭に立って先登、龍驤将軍・積射将軍に至り晋安県子に封ぜられ封邑四百戸。
- 元徽二年(474年)、桂陽王の乱が起こると、周盤龍は冗従僕射・騎官主領馬軍主として太祖に従い新亭に頓し、屯驤校尉・黄回と共に城南で賊と対陣、後に城中に引き返し合力して拒戦した。事が平定すると南東莞太守・前軍将軍を経て驍騎将軍に至る。
- 昇明元年(477年)、仮節都督交広二州軍事・征虜将軍・平越中郎将・広州刺史として出向を命じられたが赴任前に石頭の平定に与った。翌年、沈攸之平定後、姚道和が離心した司州刺史に代わり督司州軍事・司州刺史・仮節将軍となり、沌陽県に改封。
- 太祖即位後、右将軍に進号。建元二年(480年)、虜が寿春を侵すと軍主・仮節として豫州刺史・垣崇祖を助け、決水策で漂溺させた敵に対し輔国将軍・張倪と共に馬歩軍を西澤に伏せ奮撃、数万人を殺傷し牛馬輜重を得た。上はこれを喜び、垣崇祖・周盤龍らの勇戦を賞する詔を発した。
子・奉叔との父子奮戦
- 周盤龍が寵愛する妾・杜氏に上は金釵鑷二十枚を賜り「阿杜へ」と手勅した。太子左率に転じ持節軍主のまま。翌年、虜が淮陽を侵し南城を囲んだ。先に軍主・成買が甬城を守っていたが、買は「甬城は虜と同岸で危険が多いが、我が没すれば虜も破れる、我が児は世子になろう」と語り、虜に囲まれて数重に及んだ。
- 上は領軍将軍・李安民を都督として救援に遣わし、周盤龍にも「甬城・漣口の賊の勢いが弱まった今こそ、馬歩を率いて淮陰に下り安民の軍に合流せよ」と勅した。買は虜と激戦し手傷を負わせたが、ついに戦死した。
- 周盤龍の子・奉叔は単馬で二百余人を率いて敵陣に突入。虜の万余騎が左右に翼を張って包囲し、一騎が逃げ帰って「奉叔すでに没す」と報じた。周盤龍は食事中に箸を投げ捨て馬を馳せ矟を奮って虜中に突進、虜は周盤龍の勇名を畏れて即座に崩れた。このとき奉叔は既に大いに虜を殺して脱出していたが、周盤龍はそれを知らず東西南北に転戦した。
- 奉叔は父が久しく戻らぬのを見て再び陣中に躍り入り、父子二騎が数万の虜勢を縈攪して大敗させた。この一戦で周盤龍父子の名は北国にまで轟いた。周盤龍は容貌がか弱く訥弁だったが、戦場では勇猛果敢で諸将は及ばなかった。
晩年と子孫(奉叔・世雄)
- 永明元年(483年)、征虜将軍・南琅邪太守に遷り、三年(485年)右衛将軍・給事中、五年(487年)大司馬・征虜将軍・済陽太守。世祖はしばしば講武を行い、周盤龍に馬軍を率いて騎射を披露させた。のち病により光禄大夫、さらに持節都督兖州縁淮諸軍事・平北将軍・兖州刺史として出向し、爵は侯に進む。
- 甬城戍将・張蒲が虜と密通し、霧に乗じ船で虜二十余人を清中に入れ樵と偽って城東門から侵入させたが、戍主・皇甫仲賢が軍主・孟霊宝らと共に拒戦しこれを撃退。虜の馬歩三千余人が城外に迫るも塹に阻まれ、淮陰軍主・王僧䖍らの援軍五百人が到着し虜は退いた。
- この件で周盤龍は有司に弾劾され白衣で職に留まるも間もなく復位、東平太守を兼領。周盤龍は老いを理由に辺境勤務の解任を求め許され、散騎常侍・光禄大夫となる。世祖に「卿は貂蟬(文官の冠飾)と兜鍪(武将の兜)どちらが良いか」とからかわれ、「この貂蟬は兜鍪の中から出てきたものです」と答えた。
- 永明十一年(493年)、七十九歳で病没。安北将軍・兖州刺史を追贈された。
- 子の奉叔は勇力絶人で父に従い各地で武功を立てる一方、暴掠も多かった。世祖は奉叔に領軍として東で唐宇之を討たせたが、奉叔は上の威厳を畏れ部下を統制し侵掠しなかった。東宮直閤となり、鬱林王(蕭昭業)が西州にいた頃から親密で即位に伴い直閤将軍・曹道剛と共に側近となる。道剛は驍騎将軍・冠軍将軍、奉叔は游撃将軍・輔国将軍として殿内の直衛を監した。
- のち道剛は黄門郎に進んだが高宗(蕭鸞)は固く諫めて許さなかった。奉叔は騎馬に長け帝に騎射を教え寵愛され、後宮への出入りも許され、淮陵太守・兖州中正を兼ねた。道剛は南濮陽太守を加えられた。
- 隆昌元年(494年)、道剛は黄門郎に任ぜられたが赴任せず、持節都督青冀二州軍事・冠軍将軍・青州刺史として出向。帝が宰輔誅殺を謀ったため、奉叔を外援として出したという。道剛は中軍司馬・青冀二州中正となった。
- 奉叔が帝に千戸侯を求めこれを許されたが、高宗は輔政の立場からこれに反対、曲江県男(封邑三百戸)に封じたところ奉叔は激怒して衆中で刀を振るい高宗を睨みつけた。高宗はこれを説得してなだめたが、奉叔が任地に赴こうと部伍が既に出発したのを見て、事後の統制を失うことを恐れた高宗は蕭諶と謀り、勅と偽って奉叔を省内に召し寄せ殺害した。数人の勇士が拳撃を加えてようやく死に至らせ、高宗は帝に「奉叔は朝廷を侮った」と奏し、帝はやむなくこれを認めた。
- 高宗が帝(鬱林王)を廃した日、道剛は直閤として省中にいたが、蕭諶が先に入ってきて事を論ずるふりをし、後続の兵が刀で刺殺、洞胸して死んだ。これにより宮内を進み廃帝が行われた。
- 奉叔の弟・世雄は永元中、西江督護となる。陳顕達の乱の後、世雄は広州刺史・蕭季敞を殺し、季敞が逆に与したためと称して首を京師に送ったが、広州刺史・顔飜がこれを討ち殺した。