出自と太祖への出仕
- 蘇侃、字は休烈、武邑の人。祖父䕶は本郡太守、父端は州治中。侃は書伝を博く読み、初任は正員將軍から長城令に補せられた。薛安都が反乱を起こすと侃をその府の參軍として書記を掌らせたが、安都が虜に降ると侃は自力で南へ脱出、積射將軍に任じられた。太祖が淮上にあった時、自ら結んで仕え、上(太祖)は侃の周到さを見込んで冠軍録事參軍に取り立てた。この時、張永・沈攸之が敗れ淮北を失った直後で、太祖は北方の守備に千人足らずを配していたにすぎず、毎年秋冬には淮辺で虜の来襲を恐れる情勢が続いた。上は広く偵察を出して人心を安定させ城の修築を進めたが、侃は長く軍中にあって当時疑いの目を向けられていた。
塞客吟と人物
- そこで侃は「塞客吟」という詩を作り自らの志を託した。長編の韻文で、辺境の秋景色・望郷の情・乱世を憂う心情を詠み、さらに「塞上の歌」という短歌も詠み、天下の平定と乱世を憂う心情を表した。太祖はこの心を理解し、侃をますます励まし府の事務を委ね深く信頼した。
太祖側近としての功績
- 元徽初、巴西の李承明が乱を起こすと、太祖の議で侃が使者として慰労に赴いた。帰還後、羽林監・建武將軍を加えられる。桂陽の乱では、上は再び侃を平南錄事・領軍主とし新亭に駐屯させ、金銀を諸将に分配する任にあたらせた。事が収まると歩兵校尉、のち綏虜將軍・山陽太守に出て、清廉な治政で百姓に慕われ、龍驤將軍に進号、前軍將軍に転じた。
- 沈攸之の乱が起こると、侃は游擊將軍となり太祖驃騎諮議・領錄事に遷り、黄門郎、再び太祖太尉諮議となった。侃は長く太祖に仕えその動静を熟知していたため、丘巨源とともに『蕭太尉記』を撰し太祖の征伐の功績を記録した。その功により新建縣侯(五百戸)に封ぜられた。斉台建立で黄門郎・領射聲校尉となり、側近として深く信任された。上の即位後、侃は『聖皇瑞命記』一巻を撰して奏上した。建元元年卒、享年五十三。上はその死を大いに惜しみ、輔國將軍・梁南秦二州刺史を追贈、諡は質侯。
蘇侃の弟・烈(附伝)
- 弟の烈、字は休文。初め東莞令、張永の鎮軍中兵、累進して山陽太守・寧朔將軍・游擊將軍。袁粲が挙兵すると、太祖はあらかじめ烈を派遣し防備を助けさせ、そのまま諸将に従い石頭を平定し、吉陽縣男に封ぜられた。建元中、假節督巴州軍事・巴州刺史・巴東太守・寧朔將軍(元のまま)。永明中、平西司馬・陳留太守に至り在官のまま卒去。