南齊書卷二十八 列傳第九 劉善明

劉善明、平原の人、鎮北將軍劉懐珍の族弟(?–建元二年、享年四十九)。青州の飢饉で家財を投じ郷里を救った清廉の士。太祖に早くから心を寄せ、沈攸之討伐に際して的確な情勢分析を献じ、淮南太守として十一条の上表を行うなど文治に貢献した。

年表(6件)
  • 元嘉末青州の飢饉で倉を開いて郷里を救い、田は「続命田」と呼ばれた
  • 泰始初徐州刺史薛安都の反乱に呼応した青州の乱を逃れ、三千人を集めて北海へ奔った
  • 泰始五年青州が虜に陥落し母が捕らわれ桑乾へ移された
  • 元徽初田惠紹を推挙して虜への贖いを送らせ母を取り戻した
  • 元徽二年輔國將軍・西海太守・行青冀二州刺史として出鎮し北伐を上表した
  • 建元二年享年四十九で卒し、左將軍・豫州刺史を追贈された

出自と青州の乱

  • 劉善明は平原の人、鎮北將軍劉懐珍の族弟。父懐民は宋代に齊北海二郡太守。元嘉末、青州が飢饉で人が互いに食い合う惨状となった際、善明の家には備蓄の粟があり、自らは粥をすすりながら倉を開いて郷里を救い、多くの人命を救った。百姓はその家の田を「続命田」と呼んだ。若くして静かに読書に励み、刺史杜驥がその名声を聞いて訪ねたが善明は会わなかった。四十歳の時、刺史劉道隆に治中從事として召され、父懐民は「お前の立身は既に知っている、今度はお前が官に立つのを見たい」と言った。善明は召しに応じ、秀才にも挙げられた。宋孝武帝はその対策(策問への答え)が剛直であるのに感心した。
  • 泰始初、徐州刺史薛安都が反乱し青州刺史沈文秀がこれに呼応した。州治東陽城内に家があった善明は脱出できずにいたところ、伯父彌之が文秀を欺いて忠誠を装い、文秀は彌之に軍主張靈慶ら五千を率いさせ安都の援護に向かわせた。彌之は出発の際、密かに部下に「これでようやく禍の穴を逃れられる」と言い、下邳に至ると義兵を挙げて文秀に背いた。善明の従伯懐恭は北海太守として郡で呼応、善明は密かに一族・部曲を集め三千人を得て夜に関を破り北海へ奔った。族兄乗民もまた渤海で兵を集め朝廷に呼応した。しかし彌之はまもなく薛安都に殺され、明帝は輔國將軍・青州刺史を追贈、乗民を寧朔將軍・冀州刺史、善明を寧朔長史・北海太守とし、尚書金部郎に任じた。乗民が病没すると善明は綏遠將軍・冀州刺史となった。
  • 文秀が降伏すると善明は屯騎校尉に改任、のち海陵太守に出た。郡境は海に面し樹木がなかったため、善明は民に楡・檟・雑果の植樹を課し、その利益を得させた。後軍將軍・直閤に戻る。五年、青州が虜に陥落し善明の母は捕らわれ桑乾へ移された。善明は布衣蔬食で喪に服すように哀しみ、明帝もこれを見るたびに嘆息し人々にも称えられた。寧朔將軍・巴西梓潼二郡太守に転じたが、母が虜中にあるため西へ赴くことを望まず、涙ながらに願い出て許された。朝廷は皆善明の心情を哀れんだ。
  • 元徽初、北への使者派遣にあたり朝議で善明に人選を求めると、善明は州の同郷の田惠紹を推挙し、虜に贖いを送らせて母を取り戻すことができた。幼主(後廃帝)が即位したばかりで諸公が政を執る中、善明だけは太祖に心を寄せ身を委ねて忠誠を誓った。二年、輔國將軍・西海太守・行青冀二州刺史として出鎮、任地に着くと北伐を上表したが朝議は同調しなかった。

太祖への献策と沈攸之討伐

  • 善明の従弟僧副も善明とともに州里に名を知られていた。泰始初、虜が淮北で暴虐を働くと、僧副は部曲二千人を率いて東の海島に拠った。太祖が淮陰にあった頃その行動を壮とし召見して安成王撫軍參軍とした。蒼梧王(後廃帝)の暴虐に太祖が憂慮していた頃、太祖はしばしば僧副に密偵として様子を伺わせた。僧副は密かに善明と東海太守垣崇祖に「多くの者が太祖に広陵を固めて自立するよう勧めているが、一旦動けば長期的な得策ではない、今秋、風向きが変わる頃、卿が垣東海とともに少し虜を動かせれば、我々の計は成る」との噂を伝えた。善明は「宋の滅亡は誰の目にも明らか、もし胡虜が動けばかえって公(太祖)の患いとなる、公は稀代の英傑、ただ静かに待つべきだ、機に乗じて奮起すれば功業は自ずと定まる、根本の地(京師近辺)を遠く離れ自ら猖獗を招くべきではない」と答え、部下の健児数十人を僧副に付けて領軍府へ送り、太祖はこれを受け入れた。
  • 蒼梧王が廃されると、善明は冠軍將軍・太祖驃騎諮議・南東海太守・行南徐州事に召された。沈攸之が反乱を起こすと太祖は深く憂慮し、善明は献策して「沈攸之は八州を統べ、欲に任せて蓄財し兵馬を集め舟や武具を整え、逆心を抱くこと十年に及ぶ。しかし性来険しく軽躁で持重の才に欠け、挙兵しながら数十日も進軍を渋っているのは何かを待っているのではない。第一に兵機に暗く、第二に人心が離反し、第三に掣肘の患いがあり、第四に天が既にその魂を奪っているからだ。もともと彼の剽悍・迅速さは一戦に強く不意を突く速攻を懸念していたが、今や六軍が一斉に奮い立ち諸侯も同心している。昔、謝晦が理を失い戦わずして自壊し、盧龍(の乱)も道理に反した以上、衆多とてどうにもならなかった。まして袁粲・劉秉は攸之の根本であり、根本が滅べば枝葉が長くもつはずがない、これは既に籠の鳥に等しい」と述べた。事平定後、太祖は善明を都に召還し「卿の沈攸之評は、たとえ張良・陳平が居たとしても、これに勝るものではなかったろう」と称えた。
  • まもなく散騎常侍・領長水校尉・黄門郎・領後軍將軍・太尉右司馬に遷り、斉台建立で右衛將軍となったが病を理由に辞退し就任しなかった。司空褚淵が「隠棲は元来卿の望むところだが、今は朝廷が卿に期待している時、松喬(隠者)に倣うわけにいくまい」と言うと、善明は「私はもとより仕官への執着はないが、知己に出会った以上力を尽くしてきた、志を果たしたいと願うのみ、今や天下は清まり朝廷も人材で満ちている、私の卑見も既に述べ尽くした、しかし富貴を辞退して人目を欺くつもりもない」と答えた。太祖の即位に際し、善明の勲功と誠意により俸禄をもって報いようとし、「淮南は都に近く国家の要地、親しく賢明な者でなければ任せられぬ、卿には寝ながらにして治めてほしい」と述べ、高宗(蕭鸞)に代わり征虜將軍・淮南宣城二郡太守とし、使者を送って任命、新塗伯(邑五百戸)に封じた。

淮南太守時代の上奏(十一条)

  • 善明は郡に着任すると上表して次の十一条(要旨)を陳べた。
  • 天地開創に際し、遠方の民にも慰問を行い慈愛を広く示すべきこと。
  • 京師は人が集まる地、貧病の者、九十歳以上の高齢者や六疾(重病)で生計を立てられぬ者に医薬・恩恵を施すべきこと。
  • 宋代の赦令は実際に恩恵を受ける者が少なかった、今後の赦は実質を伴うものにすべきこと。
  • 匃奴(北魏)は未だ滅びず劉昶もなお存命、秋には侵攻もありうるため、国境の諸城の防備を固め有能な将を配し必要な物資を予め備えるべきこと。
  • 宋の大明・泰始以来の苛政・煩雑な制度を廃し簡素化すべきこと。
  • 諸々の土木事業の費用は当面停止すべきこと。
  • 皇子・皇女は倹約を旨とすべきこと。
  • 百官および府州郡県に詔して、それぞれ率直な意見を上申させ、堯舜の美風を広めるべきこと。
  • 忠貞・孝悌の者は特別に登用し、清廉・節操ある者には民政を委ねるべきこと。
  • 革命(易姓革命)は始まったばかりで天地の大慶であるから、才弁ある者を選び北の匃奴へ使者として送るべきこと。
  • 交州は険阻な辺境の地、宋末の苛政で叛乱に至った、今は徳をもって懐柔すべきで遠く将士を労し辺民を動揺させる必要はない、その地の産物は珠宝のみで朝廷が急ぎ必要とするものではないから討伐は当面停止すべきこと。
  • さらに賢聖の言葉を集めた書を撰して奏上し、諷諌に託した。上は答えて「献上された雑語はいずれも歴代聖王の明規、衆智の深い道筋である、卿がこの先範に則り情理を尽くしてまとめたこと、その忠誠は既に明らかであり、常に心に留め聴き入れよう」と述べた。
  • 善明はまた宣陽門の造営を諫め、上表して守宰の任用と賞罰を明確にし、学校を立て斉の礼制を定め、賓館を広く開いて荒れた民を迎え入れるべきと説いた。上はまた答えて「卿の忠実な思いはよく分かった、賞罰で守宰を戒め、館を整え遠方の民を迎えるのはいずれも古の善政、私も努めよう、ただし新しい礼制の改訂や国学の整備は既に公卿に命じてある、宣陽門の造営は今停止させる、徳が薄く至らぬ点も多いので、なお善言を聞きたい」と述べた。

人物と晩年

  • 善明は身長七尺九寸、質素で声色を好まず、住まいは茅葺きの粗末な家で寝台や机も削り整えられていなかった。若い頃から崔祖思と親しく交わり、祖思が青冀二州(の任)に出た際、善明は書を送り、ともに遊んだ日々を回顧し「昔ともに遊んだ日々も今は遥かなものとなった、春の林で手を携え秋の谷で杖をついて歩いた日々…旧友は次々世を去り、今や足下は北方に旄(節)を掲げ、私は南の地に赴任している、その距離は千里、江山を隔てる。人生は仮の宿りのようなもの、再会はいつのことか」と述べた。
  • さらに「日頃書物を読めば数千年の歴史も目の前にある、時代は異なれど万里を隔てても、龍虎風雲の会合や乱世を治める機運は古今変わらぬ道理だ。先に沈攸之が外で長蛇のごとく蟠踞し、袁粲もまた異心を推されたが、ただ京鎮(太祖)だけが聖なる基を創始した、それゆえ私は首席の補佐に抜擢され、大郡を授けられ関中を託され留任を委ねられた。しかし剣を抜いて城を落とす武勇も、槊を横たえ旗を奪う才もなく、ただ小才をもって参佐の命を受けているにすぎない、常に朝露のように儚い命で深恩に報いられぬことを恐れ、憂いは深く責は重い」と述べ、「振り返れば人生は取るに足らぬもの、粗末な食事と衣服にも満足し、色を好まず声を厭うのは老いてなお甚だしい。外では宰輔と交わらず、内では公卿と遊ばず、ただ天地の間に孤立し、疑いも頼るところもなく、主に忠を尽くし親に孝を尽くし民に清廉に接し家では倹約を守るのみだ。足下は今や故郷で旗を鳴らし錦を着て帰り、宋末の苦しみは既に癒えたが、河朔(北方)の民の倒懸の苦しみはなお救いを要する、遊説の士を遣り郷導とし、身軽に出発して旧地を経営し、泗水のほとりの民に帰業させ稷下の学風を取り戻させよ、足下以外に誰がこれを成し遂げよう」と結び、心をこめた贈り物を添えた。
  • 建元二年卒、享年四十九。遺言で薄葬を望み、贈物として銭三万・布五十匹を賜った。詔に「善明は忠誠早くから明らかで、才幹はあまねく発揮され、平時も難時も勤めを尽くし功績著しい、不幸にも亡くなったことを深く悼む」とあり、左將軍・豫州刺史を追贈、諡は烈伯。子の滌が跡を継いだ。善明の家には遺産がなく、ただ書物八千巻があるのみだった。太祖はその清貧を聞き、滌の家に葛塘屯の穀物五百斛を賜った。善明の従弟僧副は官は前將軍に至り、豐陽男(三百戸)に封ぜられ、永明四年、巴西梓潼二郡太守となり卒去した。