南齊書卷二十七 列傳第八 李安民

李安民、蘭陵承の人。元嘉二十七年に北魏支配地から部曲を率いて自ら脱出し南帰、以後宋代の乱を転戦し、密かに太祖蕭道成に通じてその挙兵を助けた。斉建国後は尚書左僕射などを歴任し軍機に深く関与したが、永明四年、呉興太守として在官のまま卒去した。享年五十八。

年表(5件)

出自と宋代の武功

  • 李安民、蘭陵承の人。祖父嶷は衛軍參軍、父欽之は殿中將軍で薛令に補せられた。安民は父に従い任地に赴いた。元嘉二十七年、北虜に陥落した地から部曲を率いて自ら脱出し南帰。太子劭の逆に際し安民は支軍を率いて義軍(討伐軍)に降り、建威將軍を授けられ魯爽の左軍に配された。爽が反すると安民は逃れて京師に戻り、領軍行參軍、のち左衛殿中將軍。大明中、北虜が徐兖を侵すと建威府司馬・無鹽令、のち殿中將軍・領軍として漢川の反乱を討伐。晋安王子勛が反すると、明帝は安民を武衛將軍・領水軍とし、建安王司徒城局參軍を兼ねさせ、赭圻・湖白荻浦・獺窟をすべて勝利に導き、積射將軍・軍主となった。
  • 張興世が錢溪に拠った際糧食が尽きて賊に迫られると、安民は数百の舟で賊の五城を突破し米を興世へ届けた。偽軍主沈仲王・張引が江を断とうとしたが、安民は進軍して合戦しこれを破り、さらに鵲尾・江城でも功を挙げた。事平定後、明帝は新亭で諸軍主を労い、双六賭博で安民が五投すべて盧(最高目)を出すと、帝は驚き「卿の顔立ちは方形で田の字のよう、封侯の相だ」と述べた。安民は貧しかった若い頃、ある人相見に「後に大富貴となり天子と手ずから遊ぶことになる」と占われたが、その人物は後に行方が知れなくなっていたという。

淮北攻防と太祖への接近

  • 張永・沈攸之に従い彭城で薛安都を討った際、官軍は敗れたが、安民は殿(しんがり)を務めて戦い下邳に退いて守った。寧朔將軍として淮陽城を守り、その功により邵武縣子(食邑四百戸)に封ぜられた。呉喜・沈攸之に従い虜を撃ち雎口に至るが敗れ、宿豫に退いて守った。淮北が陥落すると、明帝は安民に甬城の守備を命じ、寧朔將軍・冗從僕射・泗口の守備・舟軍の指揮を任せた。淮に沿って巡察し夀春に至ると、虜の偽長社公が十里余に連営して汝陰を侵したが、豫州刺史劉勔がこれを撃退した。虜の荆亭戍主昇乞奴が城を捨てて降ると、安民は水軍を率いて荆亭を先攻・陥落させその渡し口を断った。寧朔將軍・冠軍司馬・廣陵太守・行南兖州事に遷る。
  • 太祖(蕭道成)が淮にあった際、安民は遠く通じ合っていたが、明帝はこれを疑い、安民を劉韞の冠軍司馬・寧逺將軍・京兆太守に転任させた。さらに寧朔將軍・司州刺史・領義陽太守を授けられたが赴任せず、再度本職を授けられてもなお赴任せず、改めて寧朔將軍・山陽太守を授かった。泰始末、淮北の民が義兵を起こし南帰を望むと、安民は前鋒軍事の督とされ、さらに救援を請われたが果たせず引き返した。越騎校尉、再び寧朔將軍・山陽太守。三巴が動乱し太守張澹が涪城を捨てて逃げると、安民は仮節・都督討蜀軍事・輔師將軍とされ、土獠(異民族)が漢中で乱れると魏興まで軍を返した。事が収まると夏口へ戻った。
  • 元徽初、督司州軍事・司州刺史・領義陽太守・假節を授けられ、別に勅して「九江は辺境の防備が肝要、今この任を授けたのは鄢郢の勢いを増すためだ、固辞するな」と告げられた。桂陽王休範が挙兵すると、安民は出陣して京師を援護、左將軍・給事中に召還された。建平王景素が反乱を起こすと、冠軍黄回・游擊將軍高道慶・輔國將軍曹欣之らは密かに(太祖に)誠意を通じたが、高道慶が軍を率いて出撃した際、太祖はその変心を懸念し安民と南豫州刺史段佛榮に監視させた。安民は京口に至り葛橋で景素の軍を破り、景素は誅殺された。安民は南徐州事を代行することとなった。
  • 城局參軍王逈は安民に親しく用いられていたが、絹二匹を盗んだ。安民は涙を流し「私と汝は苦楽を共にしてきたのに、今日王法を犯した、これは汝が私を裏切ったのだ」と言い、軍門で斬り厚く弔った。軍府はみな震え服した。冠軍將軍・驍衛將軍を授けられたが赴任せず、征虜將軍・東中郎司馬・行㑹稽郡事に転じた。安民が東に赴く前、太祖は別れの宴を開き夜通し語り合い、安民は密かに「宋の命運は尽きようとしており、天命は蒼梧(帝)に暴虐を許した以上あなたにあります」と述べた。太祖は憂い迫って策がなかったが、安民は「東で江夏王を奉じて挙兵しては」と進言、太祖は許さずこれを止めた。

斉建国後の武功と晩年

  • 蒼梧王が廃されると、太祖は安民を使持節・督北討軍事・冠軍將軍・南兖州刺史とした。沈攸之が反乱を起こすと、太祖は安民を召還し本官のまま白下を鎮め城隍を修築、征虜將軍を加えて西討に進軍、さらに前將軍に進んだ。盆城に至った頃、沈攸之は平定され、督郢州司州之義陽諸軍事・郢州刺史・持節・將軍(元のまま)を授けられた。昇明三年(479年)、左衛將軍・領衛尉に遷る。太祖即位で中領軍・康樂侯(邑千戸)。
  • 宋の泰始以来、内外にしばしば賊の侵入があり、将帥以下がそれぞれ部曲を募って京師に屯集していたが、安民は上表して「淮北など常備すべき地以外の軍は全て解散させるべき、ただし側近として付き従う者は人数を限って留めよ」と進言し、上は納れて詔で募兵を禁止させた。当時王敬則は勲功と忠誠で信任されていたが、国家の機密については上は安民とのみ相談し、「署名に卿の名があれば私はもう細かく見なくてよい」とまで言った。まもなく領軍將軍。
  • 北虜が夀春から馬頭に侵入すると詔により出征、鼓吹一部を加えられた。虜が退くと安民は淮に沿って夀春に進んだ。先に宋代の亡命者王元初が六合山に党を集め僭号し(手が膝を過ぎるという瑞相を自称した)、州郡は十余年討伐できずにいたが、安民は偵察の軍を送り生け捕りにし、建康の市で斬った。散騎常侍を加えられた。その年、虜が再び南侵すると、安民は持節で淮沿いの清泗の諸戍を巡察し軍を配備、虜が朐山・連口・甬城を攻めると泗口に駐屯し軍を分けて応戦した。
  • 三年(481年)、水軍・歩軍を率い清水に入り淮陽に至り虜と戦い破った。虜が退くと、安民は伏兵の存在を察知し、族弟の馬軍主長文に二百騎を先鋒として遣り、自らは軍副周盤龍・崔文仲とともに後方を固め、軍を林に隠した。長文が宿豫に至ると、虜は寡兵と見て数千騎で遮り、長文はわざと退きながら戦い賊を本隊へ誘い込んだ。安民は盤龍らを率いて駆けつけ孫溪渚で合戦、虜軍は大敗し清水に逃げ込み溺死者は数え切れなかった。虜が莵頭公に攻城兵器を運ばせ布丘に至らせると、左軍將軍孫文顯がこれを撃破し器材を焼いた。
  • 淮北・泗州の人々は太祖が受命したと聞き南帰を望み、徐州人桓摽之・兖州人徐猛子らが数万の義軍を集め険阻に砦を築き援軍を求めた。太祖は「青徐泗州の義挙は雲集している、安民は諸将を指揮して長駆せよ」と詔したが、安民の救援が遅れ、虜の急襲で摽之らは全滅、上は大いに責めた。
  • 太祖崩御の遺詔で侍中を加えられ、世祖即位で撫軍將軍・丹陽尹に遷る。永明二年(484年)、尚書左僕射(將軍職のまま)に遷る。安民はしばしば密かに謀を上申して評価され、また尚書令王儉と親しく結んでいたため、世に「王儉の推挙によるものだ」と伝えられた。まもなく老齢と病を理由に辞任を求め、散騎常侍・金紫光禄大夫(將軍職のまま)に改任。四年、安東將軍・呉興太守(常侍のまま)となり在官のまま卒去、享年五十八。賻(弔慰金)として銭十万・布百匹を賜った。
  • 呉興には項羽神を祀り郡の庁舎を守るとされる風習があり、太守は庁舎に上がることを許されず、着任時には必ず軛(くびき)をつけた牛を供えて祀らねばならないとされていた。安民は仏法を奉じ神への供犠を行わず、牛を屐(くつ)で踏みつけて庁舎に上がり、さらに庁上で八関齋(仏教の斎会)を行った。ほどなくその牛は死に廟の側に葬られ、「李公牛冡」と呼ばれるようになった。安民が卒すると、世間はこれを神の祟りとした。詔に「安民は内外の官を歴任し功績著しく、忠実誠実な態度は常に朕の心に叶うものだった、近畿の政を任せようとした矢先に急逝し痛惜に堪えない」とあり、鎭東將軍・鼓吹一部(常侍・太守はそのまま)を追贈、諡は肅侯。