南齊書卷二十一 列傳第二 文惠太子
文恵太子長懋(字は雲喬、?–493年)。世祖の長子で、皇太子のまま即位せずに没した。学問を好んで『孝経』を講じ王儉らと経学を論じた一方、東宮の造営は奢麗を極め世祖の怒りを買った。子の昭業(鬱林王)が跡を継いだ。
出自と生い立ち
- 文恵太子、名は長懋、字は雲喬。世祖の長子で、世祖がまだ二十歳前に生まれた。太祖に愛され、姿容豊潤で幼名は白澤。
- 宋の元徽末、世祖に随って郢にあり、世祖が盆城に戻り沈攸之に抗した際、太子は将帥を慰労し自ら軍旅に侍った。祕書郎に除されるも拝さず、輔国将軍・晉熙王撫軍主簿を授けられ、事が収まると世祖は太子を都に還した。太祖は覇業を創める中で嫡嗣を心に留め、太子に「お前が戻れば私の事は成る」と言い、府東斎に置いて文武の賓客を通わせた。荀伯玉に「私が出行の日は城中の軍はすべて長懋の指図を受けよ。私が行かなくとも内外の直防及び諸門の甲兵は長懋に時々巡視させよ」と命じた。秘書丞に転じたが宣帝の諱と同じため就かず、中書郎に改め、黄門侍郎に遷るも未拝のまま。
昇明~建元期の任用と梁州の乱への対応
- 昇明三年、太祖が受禅しようとする際、世祖はすでに亰師に還っており、襄陽の兵馬の重鎮を他族に委ねたくないため、太子を持節都督雍梁二州・郢州の竟陵・司州の随郡軍事・左中郎将・寧蛮校尉・雍州刺史として出した。
- 建元元年、南郡王に封ぜられ食邑二千戸(江左でこれまで嫡皇孫が王に封ぜられた例はこれが始め)、征虜将軍に進号。
- 梁州刺史范柏年が晋寿の亡命李烏奴を誘降させて氐賊楊城蘇道熾らを討平し威名を得ていたが、沈攸之の乱が起こると柏年は将陰広宗に魏興へ出兵させ亰師を援護すると見せかけつつ形勢を観望した。事平定後、朝廷が王玄邈に代えようとすると、烏奴は柏年に漢中に拠って命を受けぬよう勧め、柏年が魏興でぐずついている間に玄邈が至り、下ろうとしなかった。太子はその変を懸念し、柏年を説かせ府長史として招くと見せかけ、柏年が襄陽に進んだところで捕らえて誅殺した。柏年は梓潼の人で華陽に移り住み代々の土豪で州里に名を知られ、宋泰始中には氐寇が晋寿の道を断った際、倉部郎として仮節し数百人を率いて路を通じ、晋寿太守を経て氐賊を討平し梁州の任にあった人物であった。
- 誅殺後、巴西太守柳引が啓上した際、太祖は「柏年は幸いこうならずに済んだかもしれないが、こうなったのは残念だ」と答えた。
- 当時襄陽で古塚(楚王塚と伝わる)を盗掘した者があり、玉屐・玉屏風・竹簡書(青糸で編み幅数分・長さ二尺、皮の節は新しいよう)など多くの宝物が得られたが、盗人は火で照らして持ち去った。後に十余簡を得た者が撫軍王僧䖍に示すと、これは科斗文字で『考工記』の周官の欠文と鑑定された。州が調査すると遺物が更に見つかり異同の論があったという。北虜の南侵に際し太子は樊沔に出るべきかと思案していたが、建元二年、侍中・中軍将軍に徴され府を石頭に鎮した。
- 穆妃(裴皇后)が薨じた際、成服の日に車駕が出て喪に臨んだが、太子が門に出て迎えるべきか朝議で疑義が生じた。左僕射王儉は『礼記』服問篇を引き「君の主とする夫人・妻・太子嫡婦のために国君が主として喪すとある。今、鸞輿が降臨されるのは主として喪するためであり、慰撫のためとはいえ弔いではない。南郡王以下は門に出て奉迎すべきではないが、至尊が臨まれる礼には変革があり、杖絰を去り戸外に立って情敬を示せば十分で、哭を止める必要もない。皇太子は一宮の主として車駕が宮に幸するのを常例に従い奉候し、成服の日は吉凶相干渉しないため衰幘のまま行事し望拝して哭を止めるのがよく、尊駕は弔いのためでなく奉迎のためと解すれば常体に適う」と論じた。上は太子が哀疾のため石頭山に居るのは相応しくないとし、西州に移鎮させた。
- 建元四年、使持節都督南徐兗二州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史に遷り、世祖の即位で皇太子となった。太祖はもと『左氏春秋』を好み、太子は旨を承けて諷誦しこれを口実とした。東儲に正位して以来、名声を尚び文士に親しみ武人を養い、皆側近に配置した。
学問への傾倒と孝経講義
- 永明三年、崇正殿で『孝経』を講じ、少傅王儉が句を摘み太僕周顒に義疏五巻を撰させた。永明五年冬、太子が国学に臨んで諸生を親試した際、少傅王儉と「敬」の名義について問答を重ねた。太子は「上が下を敬するのも下が上を奉ずるのも同じく『敬』と呼ぶのは適切か」と問い、儉は「鄭玄は礼は敬を主とするといい、尊卑に通じるものだ」と答えた。太子はさらに「忠恵」「孝慈」の名分の異同を論じ、儉・竟陵王子良・臨川王暎らと繰り返し議論を交わし、諸学生謝幾卿ら十一人も筆答で参加した。
- 王儉との間で『周易』乾卦と説卦「帝出乎震」の関係、『孝経』で孔子が曽子に授け顔子に授けなかった理由、孝は積習によらず徳の本たり得るかなど、経学の細部にわたる問答が繰り返された。太子が長年学に臨んだのは前代に例のないことであった。
- 翌年、丹陽の管轄及び南北二百里内の獄を訊すべしとの詔が下り、太子は玄圃園宣猷堂で三署の囚人を録し寛宥した。上は晩年遊宴を好み、尚書の曹事も太子に分送して省させた。
東宮の華美な造営と世祖の怒り
- 太子は竟陵王子良と共に釈氏を好み六疾館を立てて窮民を養う一方、性は奢麗で宮内の殿堂は上宮より精緻に飾られた。玄圃園を台城の北塹に匹敵する規模で開拓し、楼観塔宇に奇石を集め山水を極め、上宮から望見されぬよう竹や高い塀で隠し、須臾に建てては壊せる仕掛けを施した。孔雀の羽を織った裘は雉頭裘にも勝る豪奢さであった。晋の明帝が太子時代に西池を立てた故事に倣い東田に小苑を求め世祖はこれを許した。
- 永明中、二宮の兵力を用いて宮城苑巷を造営させた規模の壮麗さは亰師で評判となった。上は多くの耳目を布いていたが、太子の所業を敢えて上奏する者はなかった。しかし上が豫章王嶷の宅から帰る途中で太子の東田を見てその華麗さに大いに怒り、監作の主帥を収監した。太子はこれを恐れて主帥たちを匿った。太子は元来多病で体も肥え、宮内で遊びに耽ることが多かったが、上は最後までこれを知らなかった。
晩年と薨去
- 永明十年、豫章王嶷が薨じた際、太子は上の友愛の情を見て碑文を作って奏したが、鐫刻に至らぬうちに十一年正月、太子は病を発した。上は自ら見舞い、憂色を見せた。病篤くなり太子は上表し、死生の定分は悲しむに足りないとしつつ上の哀傷を案じる言葉を残し、享年三十六で薨じた。
- 太子は立太子から久しく政事に参与し、内外は継嗣を疑わなかったため、薨去の報は朝野を驚かせた。上は東宮に幸して哭し哀を尽くし、袞冕の服で斂するよう詔し、諡を「文恵」、崇安陵に葬った。
- 世祖はのち東宮を巡り、太子の服玩が制度を超えていることに大いに怒り、有司に命じて随時毀却させ、東田の殿堂は「崇虚館」とした。鬱林王の即位後、文帝と追尊され廟号は世宗とされた。
- 太子は内心明帝を嫌っており、密かに竟陵王子良に「私の心中は彼をまったく喜ばしく思わない、彼の福徳が薄いためだろう」と語った。子良は懸命に取りなしたが、後に明帝が立って果たして大いに誅害を行った。
史論
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史臣曰く、上古には父が子に先立って哭さぬものとされ、夭折は常に嗟嘆されてきた。まして正統の東儲として年徳を重ね基業を累代に興そうとした皇室の後継者が、既に耕稼の術を知り温文兼備であったにもかかわらず、武運が将に終わろうとする時に先んじて夭折したことは、思うにこれもまた冥数(天命の数)であろう。
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贊に「二象(日月)は則を垂れ三星は天に麗しく輝く。嫡を樹てるはただ長を用うるのみで賢を求めるものではない。まさに守器(後継)たらんとしたが、その命は延びなかった」とある。