南齊書卷十 志第二 禮下

建元四年 高帝山陵と昭皇后祔葬の儀

  • 建元四年、高帝の山陵に昭皇后を遷して祔葬すべきかどうかで祠部に疑義が生じ、遣使奠・啓奠・九飯の儀が問題となった。
  • 左僕射王儉は、賀循・范寧の説を引き、葬送に際しては大斂と同様に奠を設けるべきとし、「祖せずとも祭は欠かせない」と論じた。
  • 有司はさらに、昭皇后の神主はすでに廟にあり、改葬しても虞祭を行うべきか疑問視したが、王儉は范寧・賀循の説、および晋室の五陵修復や宋朝の敬后改葬の先例を挙げ、虞祭を行うべきと結論し、これが採用された。

建元二年 皇太子妃薨去と前宮官の服喪

  • 建元二年、皇太子妃が薨じた際、前宮に仕える官(宮官)がどのような喪服を着るべきか疑義が生じた。
  • 王儉は『礼記』文王世子や漢魏以来の宮官制度を引き、旧君の妻に対する礼に準じて斉衰三月を着し、居官の身は仮を申請して朝晡に臨哭すべきとし、東宮に属する者はこれに従うとした。在官の地が遠い者は、居官の地で二日半の仮を取って喪に服し、牋表を送るのみで奔赴の必要はないとされ、この議が採用された。

太子妃の斬草・銘旌

  • 太子妃の斬草・乗黄に際し銘旌を建てる儀について、王儉は、礼では棺に塗った後、祝が銘を取って殯の東に置き、大斂が終われば西階の東に建てるべきと論じた。
  • 宋の大明二年、太子妃薨去の際は九旒を建てたが、今回は斬草の日に旒を建てるべきか、旒の数や龍の画き方、翣の数はいかにすべきかが議論となった。王儉は、旒はもともと命服であり凶事に関わるものではなく、東宮の格は上公の九命に准じ、妃は儲君と一体であるから通常と異なる旒を別に立てる必要はないとし、大明の旧事は十分検討せず行われたものだとして退け、吉部の桁輅・凶部の銘旌をそのまま用い、翣は八とすることとし、採用された。

太子妃の石誌

  • 有司は、大明の故事では太子妃の玄宮に石誌を納めたが、墓銘は礼典に見えず、宋の元嘉年間に顔延之が王球のために石誌を作ったのは素族に碑策がなかったための代替に過ぎないとし、儲妃の重い礼にはすでに哀策があるので石誌は不要と議し、採用された。

穆妃の卒哭後の朔望祭

  • 有司は、穆妃の卒哭後、霊がまだ道中にある間、朔望の祭を行うべきか疑問視した。
  • 王儉は、虞卒哭の祭は本来廟の昭穆の序を祭るもので卒哭祭と全く同じではなく、四時の祭にのみ朔望・殷事があるとし、蕃国ではこの制を行わないとした。宋の江夏王妃の卒哭以後の朔望設祭は、帝室が既に卒哭で除喪した後は朔望の祭を行う理由がないことを踏まえたものであり、霊筵がまだ廟堂に昇っていなくても、桓玄や宋高祖の長沙・臨川二国の移廟の礼のように途上でも廟としての扱いになるとし、朔望の祭を行う必要はないと結論した。

建元三年 閏月をめぐる祥月の論争

  • 建元三年、皇太子穆妃が前年七月に薨じ、その年に閏九月があったため、閏月を月数に含めて数えるべきかが議論になった。
  • 王儉は、『尚書』『春秋』『穀梁伝』『公羊伝』などを引きつつ、杖期の喪は十月で小祥とするが祥縞は必ず周年を要するとし、厭屈の礼は正服の象りを取るものであり、閏月を含めずに月を数えるのが先儒の理であるとして、五月晦を祥とすべきと論じた。
  • 尚書令褚淵はこれに異を唱え、祥は本来期年に応ずるものであり、月数で数えるなら閏を含めて数えるべきだと反論した。王儉は再度答弁し、両者は十余りの応酬を重ねたが決着せず、祠部郎中王珪之は王儉の議に賛同、最終的に八座丞郎の博議により「五月晦を小祥とする」との王儉案が正式に採用され、詔で下された。

皇太子穆妃の服喪と南郡王の大祥時期

  • 尚書左丞の王逡が王儉に、中軍の南郡王の小祥は聞喜公の発哀を待つべきか問うた。穆妃は七月二十四日に薨じ、聞喜公は八月に発哀して十一月の限に達するので、南郡王も六月を待つべきか、あるいは各自別々に祥を行うべきかが議論になった。
  • 王儉は、経記に「相待つ」明文はないとし、遠地にいる者と在家の者が別々に祥を行うのは道理にかなうとして、南郡王は聞喜公の発哀を待たずに祥を行うべきと論じた。ただし忌日の変除の際には昆弟が互いに訪ね哀を伝えるのみで、対客はしないこととした。司徒褚淵ら二十人はこの議に同意し、永制として詔可された。

太子穆妃薨去と南郡王・聞喜公国臣の服喪

  • 建元三年、太子穆妃が薨じた際、南郡王・聞喜公の国臣がどのような服喪をすべきか疑義が生じた。
  • 王儉は、庶人が国君のために斉衰を着る例や、諸侯の大夫の妻が夫人のために繐衰七月を着る例を挙げつつ、皇孫は蕃国の王公であり太子穆妃は天朝の嫡婦であるから、宮臣は小君の礼を申べることができるが国官は夫人の敬を及ぼすべきではないとし、単衣白帢素帯で中門外において哭し、臨む際は宮官と同じくすべきとした。

永明十一年 文惠太子薨去と群臣の服喪

  • 永明十一年、文惠太子が薨じた際、右僕射王晏らは、喪服経では君の父・長子はともに斉衰期であるとし、至尊がすでに三年の典を行わず期制にとどめる以上、群臣は一等降して大功九月とすべきだが、それは兄弟の服であって尊きに服すべきではないとし、衰裳を重くしつつ月数を減らして斉衰三月とすることを提案した。太孫はすでに三年を申べているので、南郡国臣は斉衰期服とし、臨汝・曲江の二公国臣は正嫡ではないので服さないこととし、詔で採用された。
  • 併せて、喪服経に妾が君の長子のために従君して服す規定があるが、漢以来久しく廃れているとして、前例を踏襲し追行しないこととした。
  • また、文惠太子の期内は奏楽を停めるが、姻娶の礼における作楽の可否が議論となり、王晏らは婚礼における奏楽も三日は控えるべきとし、宋代の先例(期喪を大功に降した者の婚礼廃楽)を引いて採用された。
  • さらに、祥除の礼は本来前夜に易服し翌朝に祭を設けるのが正式だが、近年は先に臨を行ってから改服する慣行になっていたため、東宮の公除の日は先に哭臨を終えてから祭を行い、公除に当たる者は府第で変服してから入臨・奉慰の礼を行うべきとされ、詔可された。

建武二年 朝会と作楽の可否

  • 建武二年、朝会に際し世祖の遏密(諒闇)がまだ終わっていないため楽を作すべきか疑義が生じた。祠部郎何佟之は、舜が堯の遏密三祀の間文祖を継いだ例や、東晋康帝が成帝を継いだ際、懐帝永嘉元年の恵帝の喪の際に楽を作さなかった先例を引き、江充の議(古の帝王は世を継ぐ形は異なっても軽重は同じとする説)に従うべきとし、採用された。

建武二年 世祖文皇帝の忌日・大祥の儀

  • 建武二年正月、世祖文皇帝の二年目の忌日が正月二十四日、大祥が二十九日、三月二十九日には祥禫にあたるとされ、至尊と群臣の泄哀の儀を定めるべく、二学八座丞郎博士による議論が行われた。
  • 陶韶は、文帝は正号・祖宗であり祥忌の日には皇帝は祭服を着て太極殿に出て哀を泄べ、百僚も祭服で陪位すべきと論じた。
  • 太常丞李撝は、追尊された号には本来正服が相応しいが権制に従ってきた経緯から苴杖を用いず、鑽燧の変化にも及ばないとしつつ、追尊の帝には帝礼を用いるべきだが、龍飛中興の事情から深衣の変化はなく、弔服で正殿に出て挙哀すべきと論じた。
  • 給事中領国子助教謝墨濟は、追崇尊極は実際には性(孝心)に由来するものであり、聖上は既に七廟を継いでおり三后(三代前)の周忌のような祥禫の制はないとした。
  • 太学博士崔愝は陶韶の議に、太常沈淡は李撝の議に、国子博士劉警らは謝墨濟の議にそれぞれ同意した。
  • 祠部郎何佟之は、『春秋』の趣旨に基づき君親を継ぐ臣子の礼は同じであるとし、世祖の祥忌には至尊は弔服で升殿し、群臣は同じく哀感を致し、事が終われば百官は宣徳宮で拝表し陵園に哀を致すべきと論じ、尚書令王晏ら十九人がこの議に同意し、詔可された。

海陵王薨去と戎服臨会

  • 海陵王が薨じた際、百官が会哀するにあたり、時は纂厳(戒厳)中であったため戎服で臨むべきか疑義が生じた。祠部郎何佟之は、羔裘玄冠は弔いの服ではなく、兵服で喪に臨むのも道理に合わないとし、宋泰始二年の孝武大祥の日に百寮が宮門で戎服から変えて[巾*夾]衣を着て入臨し、終われば外に戻って再び戎衣を着けた先例に従うべきとし、採用された。

史論

姫(周)の礼制と孔子の教えは百代の規範であり、三千の礼はすべて数を持つ。四維はここに張られ、彞典は損益を経て興廃する。憲章・戎祀・軍国・社廟・郊庠・冠婚・朝会・服紀・凶喪は、存すれば盛徳となり、その戒めは先に亡んだ例にある。