礼制編纂の沿革
- 礼儀は天地とともに広大で、君臣・人倫の始まりを定めるものだが、三代の遺文の多くは秦の焚書で失われ経誥にわずかに残るのみである。漢初、叔孫通が漢礼を制定したが班固の『漢書』志には載らなかった。後漢では太尉胡広が『旧儀』を撰し、左中郎蔡邕が『独断』を作り、応劭・蔡質もそれぞれ当時の制度を記録したが、司馬彪の書(『続漢書』礼儀志)はそれらを採らなかった。
- 魏は漢末の大乱で旧章が絶えたため、侍中王粲・尚書衛覬が朝儀を新たに集成したが、魚豢・王沈・陳寿・孫盛らの史書はいずれも詳しく記さない。呉では太史令丁孚が漢の遺事を拾い、蜀では孟光・許慈が諸典を起草した。晋初、司空荀顗が魏代の旧制を踏まえて『晋礼』を撰し、羊祜・任愷・庾峻・応貞らと共に165篇にまとめたが、続く摯虞・傅咸の編纂は完成前に中原が陥落した(『晋書』に見える摯虞の『決疑注』はその遺稿)。江左では僕射刁協・太常荀崧が旧文を補い、光禄大夫蔡謨がさらに整えた。宋初も諸儒による改革が続いたが、前史に詳しいのでここでは繰り返さない。
- 永明二年、太子歩兵校尉伏曼容が礼楽の制定を上表し、詔により尚書令王儉が新礼を制定、治礼・楽学士の職を設けて旧学四人・新学六人・正書令史各一人・幹一人・秘書省の能書弟子二人を配し、前代の吉凶賓軍嘉の五礼を集成した(詳細は略す)。郊廟・庠序の儀、冠婚喪紀の節目のうち、変革のあった事項や当時の記録すべき事項を今この志に収め、輿輅・旗常など前代との異同があるものは別篇に立てる。
建元元年 郊祀・明堂の年次と配享
- 建元元年七月、有司が「郊祀と殷祭(合祭)をどの年に行うべきか、配する祖はどちらか、明堂の祭祀は郊と同年にすべきか」を問うた。八座丞郎から博士議曹郎中裴昭明・孔逷は「今年七月に殷祀、来年正月に南郊・明堂を無配で祭るべき」と議した。殿中郎司馬憲は「南郊は従来通り配饗、明堂は無配なら廃すべき」と議した。
- 右僕射王儉は『礼記』王制・『春秋』の祫祭の例、緯書『礼緯稽命徴』を引き、郊配の重さは王迹に基づくとし、漢の杜林の高帝配天説、魏の高堂隆の舜配天説、蒋済の武皇帝配天説など歴代の議論を検討した。明堂の五室・配食についても『大戴礼記』『五経異義』鄭玄・袁孝尼・徐邈らの説を比較検討し、南郊と明堂は本来別日に行うべきだが近代は同日で行われてきた経緯を論じ、「今年十月に宗廟を殷祀、来年正月上辛に南郊、同日に明堂、次の辛日に北郊を祭り、いずれも無配とする」との案を示した。詔でこれを可とし、明堂についてはさらに詳議するよう命じた。有司は再度、無配でも祭祀は欠かせないとし、詔は旧に依ることとした。
建元四年 世祖即位後の郊祀の年次
- 建元四年、世祖の即位に伴い、有司が嗣位の年の南北郊・明堂祭祀の扱いを問うた。尚書令王儉は秦漢以来の郊祀沿革(漢高祖の雍四畤、武帝の甘泉・汾陰祠、成帝の長安南北郊、光武の洛陽郊祀など)を検討し、東晋の明帝・簡文帝、宋の孝武帝の即位年の先例(いずれも翌年に郊祀)を挙げ、「来年正月に南北郊・明堂を祭るのがよい」と議し、尚書領国子祭酒張緒ら十七人も同意、詔で可とされた。
永明元年 立春と郊祀の日取り
- 永明元年、南郊の予定日が立春の後になったため、世祖は郊日の変更を検討した。尚書令王儉は『礼記』郊特牲・鄭玄・王肅らの説を引き、圜丘祭天と郊祭祈穀は本来別のものだが、東晋以来は一体として扱われてきたことを説明し、景平元年・元嘉十六年の先例(立春後の郊祀)を挙げ、日を遷す必要はないと議した。合朔(新月)と重なる懸念についても晋の成帝咸康元年の元服・親祀の先例を引いて問題ないとし、詔はこれに従った。
永明二年 郊祀と明堂の同日・異日
- 永明二年、祠部郎中蔡履は「郊と明堂は本来別日とすべき」と議した。太学博士王祐は「来年正月上辛に南郊、次辛に明堂、後辛に北郊」を提案。兼博士劉蔓は漢代の郊祀記録(元鼎五年・元封元年など)を引き異論を述べた。兼太常丞蔡仲熊は鄭玄『鄭志』の解釈を検討し、太尉従事中郎顧憲之は『春秋』『礼記』『尚書』の記述を引いて郊・堂は本来同日にすべきと論じた。司徒西閣祭酒梁王(蕭衍)、驍騎将軍江淹、尚書陸澄もそれぞれ議論を寄せ、最終的に尚書令王儉が漢魏晋の先例を総括し、「明年正月上辛に昊天を祀り、次辛に后土を瘞め、後辛に明堂を祭り、いずれも皇帝が親奉する。車服の儀は南郊が大駕、北郊・明堂は法駕・衮冕とする」と議し、詔でこれを可とした。
建武二年 南郊壇の造営をめぐる議論
- 建武二年、通直散騎常侍庾曇隆は「永明中に建てられた瓦屋造りの南郊壇は経史に根拠がなく、天を敬う質朴の意に反する」として撤去を上啓した。詔は有司に付され、国子助教徐景嵩・左丞王摛は曇隆の意見に同調、驍騎将軍虞炎は現状維持を、祠部郎李撝は「宗廟の旅幕が棟宇に変わったのと同様、郊祀の氈案も瓦屋への変化は問題ない」と議した。結局、曇隆の議は行われなかった。
建武二年 旱による雩祭
- 建武二年、旱魃により雩祭(雨乞い)の実施が議論された。祠部郎何佟之は『周礼』司巫・女巫の職掌、『礼記』月令、鄭玄・鄭衆・王肅の注、晋の永和年間の雩制などを詳細に検討し、雩壇の位置(郊壇の東・営域の外)・高さ(四尺・径四丈・周十二丈・四階)・祭る対象(五精の帝、世祖を配食)・使用する礼楽(旱祭ゆえに盛楽は用いず祝史の言辞のみとする)・服色(緇色)などを具体的に定める議を上げ、詔はこれに従った。
隆昌元年〜永元二年 明堂における世祖配享の是非
- 隆昌元年、明堂の配食について有司が議した。国子助教謝曇済は『祭法』の禘郊祖宗の説に基づき、太祖・宣皇帝(文武)を双祀すべきと議した。助教徐景嵩・光禄大夫王逡之は世祖・文皇帝を配すべきと議し、祠部郎何佟之は周の后稷配天の例を引き文皇帝を推して世祖を配すべきとした。左僕射王晏は鄭玄の祖宗通称説を批判し、世祖を明堂に殷薦すべきと議し、詔はこれを可とした。
- 永元二年、佟之は再び議を起こし、『祭法』有虞氏・周人の禘郊祖宗の制、鄭玄・王粛の解釈の相違、漢の文帝・武帝の高祖配食の例(一人両配の不当)を検討し、「先皇(文皇帝)を高宗と並べて世祖の下に配し、共に西向させるべき」と論じた。国子博士王摛は『孝経』『詩経』を引いて武王を配さない周の例を示し反論、佟之は再度反論して周公摂政期の礼と成王親政後の礼の違いを論じた。最終的に多数の参議は佟之の議を支持し、詔で可とされた。
太祖の廟制と七廟
- 太祖が斉王であった当時は旧制に依り五廟を立てたが、即位後は七廟とし、広陵府君・太中府君・淮陰府君・即丘府君・太常府君・宣皇帝・昭皇后を祀った。建元二年、太祖が太廟六室を親祀した際、昭后室の前での儀礼をめぐり彭城丞劉瓛に諮問し、廟僚が代わって執爵することとなった。皇太子穆妃の卒哭後は太廟の陰室に祔祀し、永明十一年には文恵太子の卒哭後も同様とした。太祖崩御後は広陵府君を毀し、鬱林王即位で文帝を追尊、太中府君を毀して淮陰府君を残した。明帝が立って旧に復し、崩後は世祖と兄弟として世数に数えず祔廟した。
史論(七廟の制について)
- 史臣曰く、先儒は宗廟の義について、高祖以下五世で親を尽くし、后稷を始祖、文武を二祧として王は七廟を立てるとする。禹は始祖を立てず、湯は契を先にしないなど、夏五廟・殷六廟の数もこれに準ずる。漢の宗廟制度は経古に反し、匡衡・貢禹・蔡邕らが遷毀を論じたが四百年間ついに定制がなかった。魏では親廟四代のみ、呉蜀の祭祀にも礼を失した例が多い。晋は王粛の説により文帝・景帝を共世としたが、楊元后が崩じた際、征西の廟が毀されなかったことから元后を世数に入れないことが知れる。江左の賀循は「弟は兄を継がないため世は七を限度とし主に定数はない」と論じた。宋初は臧后を世室とし、実質親廟四代であった。太祖未登の場合の昭穆の数の継承などは礼官が詳しく検討すべき事項である、と評する。
諒闇(服喪中)の祭祀親奉
- 宋の泰豫元年、明帝崩御に際し博士周洽は「諒闇(喪中)は四時の祠を親奉すべきでない」と議した。建元四年、尚書令王儉は晋の中朝の諒闇議を踏まえ、『左伝』の嗣君踰年即位後の朝会・聘享の例、『大戴礼記』『孔子家語』の武王崩御後の成王元服・朝廟の記事、『礼記』曽子問の卒哭後の主の反廟の礼などを検討し、江左では卒哭・公除の後は親奉が行われてきた慣例を確認した。泰豫元年の「三年の喪は親奉すべきでない」との議は、既葬・卒哭後の親奉の原則を誤解したものであり、晋武帝以来の通儒の判断に従い、旧に依り親奉すべきと結論し、詔はこれに従った。
永明九年 太廟の四時供物と豫章王妃庾氏の家廟
- 永明九年正月、太廟の四時祭に宣帝は麫起餅・鴨臛、孝皇后は筍・鴨卵脯・醤炙・白肉、高皇帝は肉膾・葅羮、昭皇后は茗粣・炙魚を薦めるよう詔した。いずれも生前の嗜好による。これに先立ち、世祖の夢に太祖が現れ「宋氏の諸帝が太廟で我らに食を求めてくる、別に我のために祠を設けよ」と告げたため、豫章王妃庾氏の旧宅(青渓宮)に堂を設け、太祖・宣帝・二后を家人の礼で祀った。
史論(宗廟の別祠について)
- 史臣曰く、漢の廟制は郡国に遍在し、前儒が遷毀を論じるほど煩瑣であった。光武帝は南頓君以上四世を舂陵に別祠し、建武三年に舂陵園廟へ幸した記録があり、張衡「南都賦」にも見える。魏の文帝も洛陽の廟が未完成の際、建始殿で武帝を家人の礼で祀った。世祖が漢明帝の故事に倣い旧宮で祀りを始めたのも、これに合致する一時の盛事である、と評する。
永明六年 太廟供物の魚の数
- 太常丞何諲之は太廟の供物の生魚・干魚の数について『儀礼』少牢饋食礼を引き検討したが、国子助教桑恵度は「玄酒を尊ぶ礼の趣旨からは干魚五頭が適切」と反論し、諲之の議は行われなかった。
永明十年 功臣の太祖廟廷配饗
- 永明十年、故太宰褚淵・故太尉王儉・故司空柳世隆・故驃騎大将軍王敬則・故鎮東大将軍陳顕達・故鎮東将軍李安民の六人を太祖廟廷に配饗する詔が出た。祠部郎何諲之は宋代の功臣配饗の先例(位牌の様式は用いず官爵諡名を記した板を設ける)を確認し、その通りに定めた。
永明十一年 故太子の太廟祔祀
- 永明十一年、右僕射王晏・吏部尚書徐孝嗣・侍中何胤は、故太子(文恵太子)の太廟祔祀について宋の元后の故事(太尉が礼を行い太子が拝伏を共にする)を参照し、太常が廟位を主り太尉が執礼、太孫が拝伏を共にし、正礼の後の陰室の祭りは太孫が自ら進奠すべきと議し、詔はこれを可とした。
建武二年 景懿后の新廟遷座の車服
- 建武二年、景懿后(明帝の生母)の新廟遷座にあたる車服の儀について、祠部郎何佟之は『周礼』の王・皇后の服制、上公夫人の副・褘衣の例、晋の太妃の儀・宋の皇太妃の儀を検討し、景皇懿后は九命の礼を崇めるべきとして、侍衛・陪乗を含め近代の皇太妃の儀に依り、后は重翟の車に乗るべきと議した。斉初に廟を遷した際、宣皇神主が金輅に乗り皇帝も金輅で従った先例に依るべきとし、詔はこれに従った。
永泰元年 嗣君の廟見の礼
- 永泰元年、有司は新帝の廟見の礼の要否を議した。尚書令徐孝嗣は「嗣君の即位に廟見の文はない」としたが、左丞蕭琛は『商書』『晋書』の朝廟の記事、『詩経』周頌「烈文」「閔予小子」とその鄭玄注(成王の朝廟)、漢の昭帝・成帝・哀帝・平帝・和帝の謁廟の記録を挙げて反論した。太子在宮時の郊祀への随従を廟見の代替とする説にも異を唱え、晋の成帝が改号時と元服時の二度謁廟した例を引き、「一つの廟に誠を尽くし万国に範を示すべき」と論じ、奏はこれを可とした。
永明元年 臘祀太社稷と日蝕の重複
- 永明元年十二月、臘祀太社稷の当日が合朔・日蝕の致斎期間と重なる問題について、尚書令王儉は『礼記』曽子問の「大喪のみ祭祀を廃す」の原則、初平四年の士孫瑞の議(日蝕では社を廃さず郊を廃さず)を引き、廃すべきでないと議し、詔はこれを可とした。
永明十一年 社稷の位置と向きの論争
- 永明十一年、兼祠部郎何佟之は『礼記』郊特牲・鄭玄・王肅の説に基づき、古の祭社は北向きに位置し斎官が南向きに立つのが正しいとし、近代は帝社が南向き・太社と稷が東向きで、斎官が社壇の北で神の背後から行礼している誤りを指摘した。稷は百穀の神で陰気を主る社とは異なるとし、稷は東向き・社は北向き(斎官は東で南向き)に改めるべきと議した。この議論は治礼学士との間で三度の往復論争となり、建武二年に至るまで治礼側に的確な根拠がなく、最終的に佟之の議が行われた。
建武二年 南北郊・明堂・宗廟・社稷の牲色
- 建武二年、祠部郎何佟之は『周礼』大宗伯・牧人の職掌と鄭玄注を引き、天は玄牲、地は黄牲、陽祀(南郊・宗廟)は騂牲、陰祀(北郊・社稷)は黝牲を用いるのが本来の制であるのに、当時は南北両郊とも玄牲、明堂・宗廟・社稷とも赤牲を用いて違えていることを指摘し、明堂の五帝配食に句芒等の五神の位が欠けている点、北郊に重黎の坐が誤って設けられている点も併せて正すべきと議した。前軍長史劉繪は異論を述べたが、佟之は『周礼』の大祀・次祀・小祀の別を再論し、参議はこれを是とし、詔はこれに従った。
永元元年 朝日夕月の礼
- 永元元年、歩兵校尉何佟之は『周礼』典瑞・馬融・盧植・鄭玄らの諸説を検討し、「日は太陽の精、月は太陰の精であり、春分・秋分に朝日・夕月を行うのが理に適う」とし、漢魏以来の朝夕拝日の煩雑な儀礼を簡略化し、春分に正殿の庭で東向きに日を拝し、秋分に西向きに月を拝すべきと議した。服制についても、朝日は玄冕三旒、近代の郊天は衮冕十二旒に対応させ、朝会の絳紗袍・通天冠を用いるのが適切とし、詔はこれに従った。
永明三年 先農・耕藉の日取り
- 永明三年、来年正月の先農祭・親耕の日取りについて、尚書令王儉は「亥日」の根拠を問い、兼太学博士劉蔓・太常丞何諲之・国子助教桑恵度・助教周山文・助教何佟之・殿中郎顧暠之がそれぞれ『礼記』月令、鄭玄・盧植・蔡邕の説、漢文帝・昭帝・明帝・章帝の耕藉の記録を検討した。最終的に佟之の議(丁亥の日は祭祀に相応しい吉日であり、先農に限らず用いられてきた)が支持され、丁亥の日を用いる奏が可とされた。
国学の設立と廃止の変遷
- 建元四年正月、国学が立てられ学生百五十人が置かれたが、太祖崩御により中止された。永明三年正月、再び学が立てられ、生員二百人が置かれた。この時、有司は釈奠・釈菜の礼を議し、尚書令王儉は『周礼』『礼記』を引き、陸紱・范寧・范宣・喩希らの先儒の説(廟の格式や礼楽の軽重)を比較検討し、宣尼廟には上公に準ずる儀礼(軒懸の楽・六佾の舞)を用いるべきと議した。その冬、皇太子が『孝経』を講じ釈奠に親臨した。
- 建武四年正月にも学が立てられたが、永泰元年、東昬侯の即位に伴い尚書符により学が廃された。領国子助教曹思文は上表し、漢の成帝から元始年間まで百余年間、国諱があっても学を廃さなかった先例、晋武帝崩御時も学が存続した例を挙げ、永明中に太子がいないことを理由に学を廃したことこそ古典に反すると論じ、国学と太学の別(晋の元康三年、官品五品以上が入る国学を新設した経緯)を説明し、「学の興廃を太子の有無に結びつけるのは永明の大きな誤り」と痛論し、郡県・郷閭にも学と教えを広めるべきと訴えた。有司はこれを尚書と二学に付して詳議させたが、結局学は立てられなかった。
永明五年 南郡王昭業の元服の儀
- 永明五年十月、南郡王昭業(後の鬱林王)の元服にあたり、前例のない皇孫の冠礼の儀注が議された。尚書令王儉は『儀礼』士冠礼・『大戴礼記』公冠篇・『礼記』冠義の記述と鄭玄注を検討し、南郡王は儲君(皇太子)の子として諸侯王とは異なる扱いをすべきとし、太常が持節して加冠し大鴻臚が醮酒を賛ずる儀を定めた。祝辞・醮酒辞も新たに撰し、詔はこれを可とした(祝辞・醮酒辞の全文を収録)。
婚冠礼の簡素化
- 永明中、世祖は婚礼の奢侈を戒め、諸王の納妃の儀を簡素化し、上(帝)および六宮の婚礼も棗栗・腵脩・香沢・花粉のみとし、その他の衣物は停止し、公主の降嫁のみ舅姑への贈り物を残した。永泰元年、尚書令徐孝嗣は冠礼・婚礼の儀の見直しを議し、『儀礼』士冠礼・『礼記』郊特牲を引き、冠礼は一酌の醴を用いる古礼に、婚礼は卺(ひさご)を用いる古礼に依るべきとし、金銀の連鎖や華美な牢燭の類は停止・省略すべきと議した。参議はこれに同意し、奏は可とされた。
建元元年 太常府君の諱
- 晋の太始二年、有司は皇后の諱を帝の諱と共に詔で公布する故事を議した先例があった。建元元年、太常が朝堂の避諱を上申した際、僕射王儉は「皇后の諱は旧に依り立てない」とし、太常府君の諱は避けるべきだが朝堂の榜題には及ばないと議した。晋の京兆府君・宋の東安府君の先例を引きつつ、孫毓・司馬道敬・何承天ら先儒の見解の相違も紹介した上で、人名・地名が太常府君や帝后の諱に触れる場合はすべて改めるとし、宣帝の諱(同名の二字を偏諱しない)により承明門を北掖門に改めた例なども記した。
元会(正月朝賀)の儀礼の沿革
- 漢末、蔡邕が「漢朝会志」を編もうとしたが完成しなかった。秦では十月朔を歳首とし、漢初も大饗会を行ったが、夏正採用後も十月朔の会は残った。後漢以降は正旦の未明に鐘を鳴らして賀を受け、公侯以下が参内し二千石以上が昇殿して万歳を称え、その後に楽を奏して宴饗した。魏の武帝は鄴で文昌殿の元会を漢儀に依り行い百花灯を設けた。後魏(曹魏)が洛陽宮室を修めるまでの間、許昌で氈殿・青帷を用いた略式の元会を行った例もある。晋の武帝は元会の儀を改定し夜漏未尽十刻に庭燎を焚いて群臣を集め(傅玄「朝会賦」に見える)、晨賀と昼会(女楽三十人による房中の歌を伴う)を分けて行った。江左では晨賀を略し、宋代には昼漏上十刻に賀を受けるようになった。その他の儀注は多岐にわたるため省略する。
三月三日曲水会
- 上巳の禊祭の由来として、『漢儀礼志』の東流水での祓禊の記事、晋中朝の洛水での禊、趙王倫簒位時・懐帝の天淵池での会、陸機の記述などが挙げられる。晋の元帝は三日の弄具を廃したが、後世には百戯の具として伝えられ、技巧の増減は一定しない。
史論(禊と曲水の由来について)
- 史臣曰く、禊と曲水の意義には諸説がある。「已」は「祉」の意で祈祉を言うとする説、三月三日を清明の節として豊年を祈るとする説、応劭の「絜(きよめ)」の説、漢の郭虞が三月上辰・上巳に生んだ娘が相次いで死んだことに由来するという俗説などがある。禊が曲水になった時期は永寿以前と推定され、祈農の説が事実に近いであろう、と評する。
九月九日馬射
- 秋・金の節に武を講じ射を習う行事で、漢の立秋の礼に象るという。
史論(馬射の由来について)
- 史臣曰く、晋の中朝の元会には臥騎・倒騎・顛騎など東華門から神武門へ馳せる曲芸があり、これも角抵雑戯の類である。宋の武帝が宋公として彭城にあった際、九月九日に項羽戯馬台に出た故事が、今日まで馬射の旧例として受け継がれている、と評する。