南齊書卷八 本紀第八 和帝
斉の第七代(最後の)皇帝、和帝宝融(字は智昭、?–502年)。高宗の第八子。東昬侯誅殺の挙兵に際し蕭頴冑・梁王蕭衍に擁立されて江陵で即位、建康平定後まもなく蕭衍に禅位して殺された。享年十五。
出自と生い立ち
- 和帝、諱は宝融、字は智昭。高宗の第八子。建武元年、随郡王(邑二千戸)に封じられ、三年、冠軍将軍・領石頭戍軍事となった。永元元年、南康王に改封され、持節都督荆雍益寧梁南北秦七州軍事・西中郎将・荆州刺史となった。
永元二年(500年)
- 十一月甲寅、長史蕭頴冑が輔国将軍巴西梓潼二郡太守劉山陽を殺し、梁王(蕭衍)を奉じて挙義した。乙卯、戒厳を命じ、繋囚の恩赦・官職復帰・従軍者への恩典など諸令を発した。丙辰、雍州刺史梁王を使持節都督前鋒諸軍事・左将軍とし、丁巳、蕭頴冑を右将軍・都督行留諸軍事とした。戊午、梁王が上表し勧進した。十二月乙亥、群僚の勧進をなお許さなかった。壬辰、驍騎将軍夏侯亶が京師から江陵に至り、宣徳太后令として西中郎将南康王が皇祚を継ぐべきだが、清宮(建康の平定)を俟って正式な即位とし、当面は宣城・南琅邪・南東海・東陽・臨海・新安・尋陽・南郡・竟陵・宜都の十郡を宣城王相国・荆州牧として加黄鉞・百官設置を許すとされた。
永元三年(501年)
- 正月乙巳、王(南康王)が受命し大赦した(梅蟲兒・茹法珍らは赦例に含まれず)。右将軍蕭頴冑を左長史とし鎮軍将軍に進号、梁王は征東将軍に進号した。甲戌、楊公則を湘州刺史とし、甲寅、城南に牙を建てた。二月乙丑、王茂先を江州刺史、曹景宗を郢州刺史、邵陵王宝攸を荆州刺史とした。己巳、群僚が尊号を上り、宗廟・南北郊を立てた。甲申、梁王が大軍を率いて沔口に屯し、郢州刺史張沖はこれを拒み守った。三月丁酉、張沖が死に、驃騎将軍薛元嗣らが固守した。
中興元年(501年、永元三年に同じ)
- 春三月乙巳、皇帝に即位し大赦・改元、文武に位二等を賜り、鰥寡孤独の窮民に穀を給した。相国左長史蕭頴冑を尚書令、晋安王宝義を司空、廬陵王宝源を車騎将軍・開府儀同三司、建安王宝寅を徐州刺史、夏侯詳を中領軍、蕭偉を雍州刺史とした。丙午、有司が宝巻(東昬侯)を零陽侯とするよう奏したが詔で許さず、涪陵王とする奏を許した。乙酉、蕭頴冑が荆州刺史を行い梁王の黄鉞を仮せられた。壬子、柳惔を益寧二州刺史、己未、荘丘黒を梁南秦二州刺史、鄧元起を広州刺史とした。夏四月戊辰、荆雍義挙の功に報いる詔を出した。五月乙卯、車駕が竹林寺禅房に幸し群臣を宴した。巴西太守魯休烈、巴東太守蕭恵訓の子璝が義軍に抵抗した。秋七月、東軍主呉子陽ら十三軍が郢州救援のため加湖に屯したが、丁酉、王茂先がこれを撃破し、辛亥、中護軍とされた。丁卯、魯山城主孫楽祖が城を挙げて降り、己未、郢城主薛元嗣も降った。八月丙子、平西将軍陳伯之が降り、乙卯、陳伯之を江州刺史、子の虎牙を徐州刺史とした。
- 九月乙未、梁王が京邑を平定した際は便宜に従うよう詔した。冬十一月乙未、李元履を豫州刺史。壬寅、尚書令鎮軍将軍蕭頴冑が卒し、蕭澹が荆州府州事を行った。丁巳、蕭璝・魯休烈が降った。十二月丙寅、建康城が平定され、己巳、皇太后令で梁王を大司馬・録尚書事・驃騎大将軍・揚州刺史・建安郡公とし、晋の武陵王遵の承制の故事に依り百僚に致敬させた。壬申、建安王宝寅を鄱陽王に改封、癸酉、司徒揚州刺史晋安王宝義を太尉・領司徒とした。甲戌、大司馬に銭二千万・布絹各五千匹を給し、乙酉、蕭宏を中護軍とした。
中興二年(502年)
- 春正月戊戌、宣徳太后が臨朝し内殿に入居、大司馬梁王は承制致敬を先例通り解いた。己亥、蕭昺が南兗州を監した。壬寅、大司馬に殊礼を加えた。己酉、大司馬長史王亮を守尚書令とした。甲寅、大司馬梁王を相国・総百揆・揚州牧に進め、十郡を封じて梁公とし九錫の礼を備え、遠遊冠を加え位を諸王の上に置き、相国の緑綟綬を加える詔を出した。己未、曹景宗を郢州刺史とした。二月壬戌、湘東王宝晊を誅した。戊辰、梁公の爵を梁王に進め、封を十郡増やす詔を出した。三月乙未、皇太后令で梁国に銭五百万・布五千匹・絹千匹を給した。辛丑、鄱陽王宝寅が虜へ亡命、邵陵王宝攸・晋熙王宝嵩・桂陽王宝貞を誅した。甲午、梁王に十二旒の冕、天子の旌旗、出警入蹕、金根車・六馬、五時副車、旄頭雲罕、八佾の楽舞、鐘簴宮懸を用いさせ、王子王女の爵命も旧儀の通りとする命を下した。庚戌、蕭秀を南徐州刺史、蔡道恭を司州刺史とした。
- 車駕が東帰し姑熟に至った。丙辰、梁王に禅位。丁巳、廬陵王宝源が薨じた。夏四月辛酉、禅譲の詔が至り皇太后は外宮に退いた。丁卯、梁王は帝を巴陵王として姑熟に宮を置き、斉の正朔を用いる旧例に依った。戊辰、薨じた。享年十五。斉の和帝と追尊され、恭安陵に葬られた。
史論
- 史臣曰く、夏は桀により、殷は紂により滅んだ。天命が改まる理は世を延ばさぬはずだが、皇符の集まるところとして西楚(梁)が再興し、神器がしばし帝の許に留まったことは、たとえ命数の定めであったとしても、その名号を得られたこと自体が幸いであった、と評する。
- 賛に曰く、和帝は末期に立って混乱を鎮め、天下の情勢を見極めて機に達し、永く終焉の頌を称えられた。