南齊書卷七 本紀第七 東昬侯
斉の第六代皇帝、東昬侯宝巻(字は智蔵、?–501年)。明帝の第二子。即位後、江祏・始安王遥光・徐孝嗣・沈文季・陳顕達ら重臣を次々に誅殺し、政務を顧みず遊興にふけった。雍州刺史蕭衍(後の梁武帝)の挙兵を招き、義師の包囲下、王珍国・張稷に殺された。享年十九。
年表(11件)
- 建武元年494年皇太子に立てられる
- 永泰元年498年七月、高宗崩御をうけて即位する
- 永元元年499年八月、揚州刺史始安王遥光の反乱を鎮圧し斬る
- 永元元年499年十月、尚書令徐孝嗣・沈文季を誅殺する
- 永元元年499年十二月、太尉陳顕達の挙兵を撃破し斬る
- 永元二年500年四月、崔慧景が京師を襲撃するが蕭懿の義兵に敗れ斬られる
- 永元二年500年十月、尚書令蕭懿を誅殺する
- 永元二年500年十二月、雍州刺史梁王(蕭衍)が襄陽で挙兵する
- 永元三年501年三月、南康王宝融(和帝)が江陵で即位する
- 永元三年501年義師が建康を包囲し、宮城は自守のみとなる
- 永元三年501年十二月、王珍国・張稷に宮中で殺される。享年十九
出自と生い立ち
- 東昬侯宝巻、字は智蔵。高宗の第二子で、本名は明賢であったが、高宗の輔政後に改名した。建武元年、皇太子に立てられた。永泰元年七月己酉、高宗が崩じ太子が即位した。
永泰元年(498年)
- 八月丁巳、雍州で虜との戦いで死んだ将士への恩賜、詔により選叙の見直しと貧困者の登用を命じた。庚申、鎮北将軍晋安王宝義を征北大将軍・開府儀同三司に進号し、建安王宝寅を郢州刺史とした。冬十月己未、科律の削減を詔した。十一月戊子、皇后褚氏を立て王公以下に銭を賜った。
永元元年(499年)
- 春正月戊寅、大赦・改元し秀才の考課を命じた。辛卯、南郊を祀り、三品清資官以上で高齢の親を持つ者に銭を給する詔。癸卯、南康王宝融を荆州刺史とした。二月癸丑、邵陵王宝攸を南兗州刺史。この月、太尉陳顕達が馬圏で敗績した。夏四月己巳、皇太子誦を立て大赦。甲戌、柳惔を梁南秦二州刺史。五月癸亥、始安王遥光を開府儀同三司。六月己酉、崔慧景を護軍将軍。癸亥、范雲を広州刺史。甲子、雍州の三調を免除する詔。秋七月丁亥、京師で大水となり死者多数、恩恤の詔を出した。八月乙巳、被災者への調税を免除、馬圏の戦没将士のための追悼を命じた。丙午、揚州刺史始安王遥光が東府に拠って反乱を起こし、京邑を曲赦して戒厳、尚書令徐孝嗣以下が宮城を守り、領軍将軍蕭坦之が六軍を率いて討伐、戊午、遥光を斬りその首を伝送した。己未、晋安王宝玄を南徐兗二州刺史、己巳、徐孝嗣を司空、劉暄を領軍将軍とした。
- 閏月丙子、江陵公宝覧を始安王とし、虜の偽東徐州刺史沈陵の投降を受けて北徐州刺史とした。九月丁未、裴叔業を兗州刺史、張沖を豫州刺史とした。壬戌、頻発した重臣誅殺を理由に大赦し、辛未、王瑩を中領軍とした。冬十月乙未、尚書令新任司空徐孝嗣、右僕射新任鎮軍将軍沈文季を誅殺。乙巳、顔翻を広州刺史、沈陵を越州刺史とした。十一月丙辰、太尉江州刺史陳顕達が尋陽で挙兵。乙丑、崔慧景を平南将軍に加え南討させた。丙寅、王鴻を徐州刺史とした。十二月癸未、楊集始を秦州刺史とし、甲申、陳顕達が京師まで至り宮城が厳警したが、乙酉、陳顕達を斬りその首を伝送した。丁亥、邵陵王宝攸を江州刺史とした。
永元二年(500年)
- 春正月壬子、張沖を南兗州刺史とし、庚午、豫州刺史裴叔業討伐を詔した。二月癸未、蕭寅を司州刺史。丙戌、蕭懿を豫州刺史とし寿春に向かわせた。己丑、裴叔業が病死し、兄子の植が寿春を挙げて虜に降った。三月癸卯、張沖を司州刺史。乙卯、崔慧景に寿春討伐を命じた。夏四月丁未、張沖を南兗州刺史。崔慧景が広陵で挙兵し京師を襲撃、壬子、左興盛が京邑水歩の諸軍を督し、南徐州刺史江夏王宝玄は京城を挙げて慧景を迎え入れた。乙卯、王瑩が北籬門に諸軍を屯させたが、壬戌、慧景の到着で瑩ら敗績。甲子、慧景が京師に入り宮内に拠って抵抗したが、豫州刺史蕭懿が義兵を起こして救援し、癸酉、慧景は軍を棄てて逃走し斬られた。京邑・南徐兗二州を曲赦。乙亥、蕭懿を尚書令とし、丙子、晋熙王宝嵩を南徐州刺史とした。五月乙巳、虜の偽豫州刺史王粛を豫州刺史とし、戊申、桂陽王宝貞を中護軍とし、己酉、江夏王宝玄を誅殺。壬子、大赦、乙丑、京邑・南徐兗二州を曲赦、戊辰、始安王宝覧を湘州刺史とした。
- 六月庚寅、車駕が楽遊苑で三元の会を行い、京邑の女性が観覧に集まった。戊戌、張沖を郢州刺史、陸慧暁を南兗州刺史とした。秋七月甲辰、張稷を北徐州刺史とした。八月丁酉、陳伯之を豫州刺史とした。甲申、夜に宮内で火災。冬十月己卯、尚書令蕭懿を誅殺。十一月辛丑、張稷を南兗州刺史。甲寅、蕭頴冑が荆州で挙兵。十二月、雍州刺史梁王(蕭衍)が襄陽で挙兵。戊寅、劉繪を雍州刺史とした。
永元三年(501年)
- 春正月丙申朔、合朔の儀式が滞りなく執り行われた。丁酉、晋安王宝義を司徒、建安王宝寅を車騎将軍・開府儀同三司とした。甲辰、王珍国を北徐州刺史。辛亥、南郊を祀り大赦、百官に直言を求めた。二月丙寅、乾和殿西廂で火災。壬午、羽林兵を雍州に遣わし内外戒厳。乙酉、胡元進を広州刺史とした。三月己亥、沈徽孚を広州刺史。甲辰、張欣泰を雍州刺史。丁未、南康王宝融が江陵で皇帝に即位した(和帝)。癸丑、陳伯之を西征に遣わした。六月、京邑で大水、被災者を賑恤。蕭頴冑の弟頴孚が廬陵で挙兵し、戊子、江州安成廬陵二郡を曲赦。秋七月癸巳、荆雍二州を曲赦。甲午、雍州刺史張欣泰と前南譙太守王霊秀が石頭の文武を率い建安王宝寅を奉じて台に向かったが宮門が閉じられ潰走した。己未、程茂を郢州刺史。この日、薛元嗣が郢城を挙げて義師に降った。
- 八月丁卯、申冑を豫州監事とし、辛巳、張環に石頭を鎮めさせ、辛卯、李居士に西討諸軍を総督させ新亭城に屯した。九月甲辰、李居士を江州刺史、王珍国を雍州刺史、建安王宝寅を荆州刺史とし、申冑を郢州監、馬仙琕を豫州監、徐元称を徐州監とした。この日義軍が南州に至り、申冑の二万の軍は姑熟で潰走した。戊申、蕭璝を司州刺史、魯休烈を益州刺史とした。丙辰、李居士が新亭で義軍に敗れた。冬十月甲戌、王珍国が朱雀桁で義軍に敗れた。戊寅、徐元瑜が東府城を挙げて降り、桓和が東宮に入って守った。己卯、衆兵が降り、光禄大夫張瓌は石頭を棄てて宮に戻り、以後は宮城門を閉じて自守するのみとなった。庚辰、胡虎牙を徐州刺史、徐智勇を益州刺史、牛平を梁南秦二州刺史とした。李居士が新亭を、張木が琅邪城を降した。義師が長囲を築いて宮城を守った。
- 十二月丙寅、新任雍州刺史王珍国と侍中張稷が兵を率いて殿内に入り帝を廃した。享年十九。帝は東宮にいた頃から遊興を好み学問を好まなかったが、高宗はこれを咎めず、ただ家人としての行いを勧める程度であった。高宗が臨終に際し「人に後れをとってはならぬ」と隆昌の教訓を戒めとして残したため、帝は小人らに政務を任せ諸宰臣を誅殺した。生来無口で朝士と交わらず、閹人や側近の御刀・応勅らのみを信用した。江祏・始安王遥光を誅した後は騎馬を好み、日夜後堂で馬を馳せ、閹人や倡伎と共に鼓を鳴らして遊び、五更に就寝して申の刻に起きる生活で、王侯の朝見も晡後まで待たせ、上奏の裁可は月に数十日も遅れ、時には所在すら分からなくなった。
- 陳顕達の乱が平定されると外出を好むようになり、経路の民家を追い立てて数十百里にわたる家々を空にし、幔幕で高障を巡らせて伎人に守らせた(「屏除」と呼ばれた)。三、四更ごとに鼓を鳴らして幡戟を掲げ道に横たえ、百姓は喧噪の中を逃げ惑い、行き先も告げず東西南北どこへでも人を追い立てた。愛姫潘氏を貴妃に立て、輿に乗る潘氏の後を帝は馬で従い、織成の袴褶・金薄帽に七宝の縛矟を執り、寒暑・風雨を問わず馳騁し、渇けば馬を下りて腰の器で水を汲んで飲みまた馬を馳せた。馬具は錦繍で飾り、閹人五、六十人を「騎客」とし、無頼で足の速い者五百人を「逐馬」として常に随行させた。射雉場を二百九十六か所置き、幕帳も贅を尽くした。郊外の民は生業を廃し、病人や死者を放置せざるを得ない状況が生じ、青渓の辺に病人を捨てた者は監司の追及を恐れて水中に沈め泥で顔を覆う事件まで起きた。
- 後宮が火災に遭った後は仙華・神仙・玉寿などの殿を新たに起こし、彫刻・彩色を極め、麝香を壁に塗り錦幔珠簾で飾ったが、工事が間に合わず諸寺の仏刹の藻井や仙人騎獣の装飾を剥ぎ取って充てた。世祖の興光楼の青漆装飾を「青楼」と呼んだ故事に対し、帝は「武帝は不器用だ、なぜ瑠璃を使わなかったのか」と言った。潘氏の服御は選りすぐりの珍宝で、主衣庫の旧物では足りず民間の金銀宝物を高値で買い上げた(琥珀の釧一つが百七十万銭)。京邑の酒租はすべて金納に換算させ、揚州・南徐州の橋・堤の役丁にも現銭を徴収して太楽・主衣の費用に充てたため、堤防・水路の荒廃が各地で進んだ。雉頭・鶴氅・白鷺縗の徴発では寵臣が私腹を肥やし、一を課して十を取る不正が横行しても郡県は訴え出られなかった。
- 三年夏、閲武堂に芳楽苑を築き、山石を彩色し、池水を跨いで紫閣諸楼観を建て、壁に男女の私褻な図を描かせた。良木佳竹を植えたが猛暑ですぐ枯れると、民家から樹木を取り立て、壁屋を毀してまで移植させた。花薬雑草も同様であった。苑中に市を立て、太官が毎朝酒肉を進め、宮人に屠酤させ、潘氏を市令、帝自ら市魁として罰を執り、争いは潘氏が裁いた。帝は膂力があり白虎幢を担げるほどで、自ら錦の伎衣を製し金花玉鏡で飾って様々な演出を楽しんだ。寵愛する小人の党与は三十一人、黄門十人。当初任用された新蔡の徐世檦は直閣驍騎将軍として殺戮の実行役を担い、徐孝嗣誅殺後に臨汝県子に封じられた。陳顕達の乱では護軍崔慧景が都督とされたが実権は世檦にあり、乱平定後、世檦は「五百人の軍主が万人の都督を制した」と語った。世檦は帝の昏縦を見抜き、党の茹法珍・梅蟲兒に「今の世に天子の要は要らぬ、我々が財を握るだけでよい」と語ったが、法珍らが争権のためこれを帝に告げ口し、帝は世檦の強勢を疎んで永元二年正月に禁兵で殺させた。世檦は拒戦して死に、以後は法珍・蟲兒が外監として詔勅を専断し、中書舎人王咺之が文翰を掌った。他にも二十余人が勢力を持った。崔慧景平定後、法珍は餘干県男、蟲兒は竟陵県男に封じられた。
- 義師が起こり江郢二鎮が降った後も帝の遊興は変わらず、茹法珍に「敵が白門前に来た時に決着をつける」と語った。義師が近郊に迫ると兵を集めて固守の計を立て、王侯朝貴を尚書都座や殿省に分置した。また鬼神を信じ、崔慧景の乱の際に蔣子文の神を仮に黄鉞・使持節・相国・太宰・大将軍・録尚書・揚州牧・鍾山王に拝したが、今度は皇帝にまで尊号し、神像や諸廟の雑神をすべて後堂に迎え入れ、巫の朱光尚に祈祷させた。冠軍将軍王珍国に三万人を率いさせ大桁を守らせたが将士に闘志なく、閹竪の王宝孫を督戦させて「王長子」と呼ばせたところ、宝孫が諸将を罵倒し、直閣将軍席豪が憤って敵陣に突入し戦死すると、その死をもって軍は総崩れとなり、朱雀観から身を投げ淮に落ちて死ぬ者が続出、以後は城を閉じて自守するのみとなった。城内の軍事は王珍国に、兗州刺史張稷が入衛の副として当たり、実兵はなお七万を数えた。帝は烏帽・袴褶で羽儀を整え南掖門に登って望み、また虚設の鎧馬・斎仗千人を張弓・抜白させて東掖門より出し「蔣王が出陣する」と称した。もとより闘争を好み、初めは宮人を軍後に使い、後には黄門を親ら陣頭に用い、傷を偽って輿で運ばせたりもした。
- この頃、閲武堂に牙門軍頓を設け、毎夜厳警させた。帝は殿内で馬を馳せ鳳荘門から徽明門へ入り、馬には銀蓮葉・具装鎧・羽毛の飾りを施し、昼寝て夜起きる生活を続けた。外の鼓声を聞くと大紅袍を着て景陽楼に登り望んだが弩に狙われ、衆はみな怠り怨んで力を尽くさなかった。募兵で出戦させても城門を出て数十歩で座り込み帰る有様で、城外に伏兵ありと恐れて城傍の諸府署の門を焼き払い、城中の閣道・西掖門内では市が立ち死んだ牛馬の肉が売られた。帝は「陳顕達は一戦で敗れ、崔慧景も囲みを解いて退いた、義師も旬日を出ずして散るだろう」と語り、太官に百日分の兵糧のみを備えさせるにとどめた。大桁の敗北後、人心は動揺し、法珍らは兵の逃亡を恐れて城を閉ざしたが、義師の長囲が完成すると、屡々戦っても勝てなかった。帝は金銭を惜しみ、法珍が賞賜を請うても「賊は私を狙っているのに、なぜ私に物をねだるのか」と拒み、後堂の数百具の備えも「殿を作るために取っておく」と言って与えなかった。御府の細作三百人には囲みが解けた後の屏除に使う金銀彫刻物の製作を急がせた。
- 王珍国・張稷は禍が及ぶのを恐れて兵を率いて殿内に入り、西上閣から後宮に入って御刀の豊勇之を内応とし、帝を討った。その夜、帝は含徳殿で笙を吹き「女兒子」を歌い、まだ寝入らぬうちに兵の侵入を聞いて北戸へ趨り後宮へ戻ろうとしたが、清曜閣はすでに閉ざされ、閹人黄泰平に刀で膝を傷つけられ倒れ、「奴め、謀反か」と言い残して、直後張斉に斬られその首は梁王(蕭衍)に送られた。宣徳太后令が下され、太祖・世祖・高宗の功業を称える一方、帝が幼少より凶愚の質を示し、高宗が正嫡の長子として輔弼を配したにもかかわらず、即位後まもなく密戚近親・元勲良輔を次々と誅滅し、任用したのは屠販の徒ばかりで、無辜を殺し財を奪い、身は元首でありながら賤事を好み、民を追い立てて巷に人影を絶やし、造営を繰り返して国財を費やし、市道の商人からも奪掠したことが列挙され、その乱行は桀紂にも比肩しがたいとまで評された。征東将軍(蕭衍)の中興の功を称え、東昬凶徒の除去を命じ、漢の海昬侯の故事に依り東昬侯に追封するとした。茹法珍・梅蟲兒・王咺之らは誅され、豊勇之は死を免れた。
史論
- 史臣曰く、漢の宣帝の時、南郡で白虎を得た者は張武といい、「武」は「張」の猛を服せしめる意である。東昬侯の亡徳は世を乱したが、その乱を収めて太平を啓いたのが「梅」「茹」(梅蟲兒・茹法珍)という閹竪の名であったのも、天意であろう、と評する。
- 賛に曰く、東昬は道を怠り桀紂に等しく、典則と彝倫を棄て、兵火を弄んでついに自らを滅ぼした。