南齊書卷十一 志第三 樂

楽制の沿革

  • 南郊の楽舞歌辞は前漢・後漢共通のものが『前漢志』に見え、五郊で互いに演奏された。魏の楽府には舞辞が見えず、恐らく漢の辞をそのまま用いたと考えられる。
  • 晋武帝泰始二年、郊祀明堂の詔で周室の礼を遵用しつつ殷祀の意を汲み、暫定的に魏の儀を用いることとし、のちに傅玄に天地五郊の夕牲歌・迎神歌を作らせた。宋文帝は顔延之に郊天の夕牲・迎送神・饗神歌を作らせており、宋初もなお晋の制を踏襲していた。
  • 建元二年、有司は郊廟雅楽歌辞について、従来学士・博士に撰進させていたのを改め、広く学者に製作させることを奏上した。参議の結果、太廟登歌は司徒褚淵に、その他はすべて黄門郎謝超宗に委ねられ、超宗は顔延之・謝荘の辞を多く削って新曲とし、楽名も改めた。
  • 永明二年、太子歩兵校尉伏曼容は英儒を集め雅楽を刪纂するよう上表したが、詔で外に付されたまま実現しなかった。

南郊の楽歌

  • 群臣出入時に「粛咸之楽」、牲の出入時に「引牲之楽」、薦豆・呈毛血時に「嘉薦之楽」(顔延之の辞に謝超宗が増損したもの)が奏された(以上は「夕牲歌」として重ねて奏される)。
  • 迎神には「昭夏之楽」、皇帝が壇の東門に入る際は「永至之楽」、皇帝が壇に昇る際は登歌が奏された。
  • 皇帝の初献には「文徳宣烈之楽」、次いで「武徳宣烈之楽」が奏され、太祖高皇帝を配饗する際には永明二年に作られた「高徳宣烈之楽」(尚書令王儉の辞)が奏された。
  • 皇帝が福酒を飲む際は「嘉胙之楽」、送神には「昭夏之楽」、燎位に就く際は「昭遠之楽」、便殿に還る際は「休成之楽」が重ねて奏された。これらを総称して南郊歌辞という。

北郊の楽歌

  • 北郊の楽歌辞は『詩経』周頌「昊天有成命」(天地を郊祀する歌)に由来し、周・漢以来、天地の祭には同じ辞が用いられてきた。宋の顔延之は「饗地神辞」一篇を作り、他は南郊と同じ辞を用いた。
  • 斉の北郊では、群臣入場・牲入場・薦豆呈毛血・皇帝入壇・飲福酒・還便殿の各楽はすべて南郊と共通だが、迎神・送神の昭夏、登歌は異なる辞が用いられた。迎地神の昭夏、登歌、初献の「地徳凱容之楽」、次いで「昭徳凱容之楽」、送神の昭夏、瘞埋の際の「隷幽之楽」が北郊固有の歌辞として作られた。

明堂の楽歌

  • 明堂で五帝を祀る歌辞は、漢の郊祀歌がすべて四言であったのに対し、宋孝武帝の時に謝荘が作った辞は五行の数(木は三・火は七・土は五・金は九・水は六)に依拠して句数を変えたが、洪範の数と月令の数のどちらに拠るべきか論争があり、著者(蕭子顕)は「数の立言の根拠は未詳」と評している。周頌「我将」の句数と対比しても、謝荘の歌には定句がなかった。
  • 建元初、黄門郎謝超宗に命じて明堂の夕牲などの辞を作らせたが、謝荘の辞も併せて採用された。建武二年の雩祭明堂では謝朓が謝荘の辞に倣って作辞したが、世祖の代の分のみ四言であった。
  • 賓の出入時の「粛咸楽」二章、青帝歌・赤帝歌・黄帝歌・白帝歌・黒帝歌(それぞれ五行の数に応じた句形)、皇帝が東壁に還り福酒を受ける際の「嘉胙楽」(太廟と共用)、送神の「昭夏楽」(宋の謝荘辞)が奏された。

太廟の楽歌

  • 太廟の楽歌辞は『詩経』周頌「清廟」一篇に由来し、漢の「安世歌」十七章がこれにあたる。後漢永平三年、東平王蒼が光武廟登歌一章(二十六句)を作り功徳を称述、建安十八年には魏国初建に際し侍中王粲が「安世詩」を作り神霊の鑒饗を説いた。
  • 魏明帝の代、侍中繆襲は「安世詩」の名は本来漢の歌名であり、当時の詩は往時の文と異なると指摘し、『周礼』志を引いて「安世楽は周の房中楽に類する」と論じた。往時の議者は房中歌を后妃の徳を歌うものとしたため「安世」の名を「正始之楽」に改めるべきとしたが、続く漢の安世歌も神の来宴を説くのみで后妃を歌わないため、繆襲は「房中楽を后妃の歌とするのは誤り」と考え、「安世楽」を「饗神歌」と改めた。
  • 散騎常侍王粛は宗廟詩頌十二篇を作ったが楽には入れなかった。晋泰始中、傅玄が廟の夕牲・昭夏歌一篇、迎送神の肆夏歌一篇、登歌(七廟七篇)を作り、廟ごとに文を異にした。夏侯湛も宗廟歌十三篇を作り、宋の王韶之は七廟登歌七篇を作った。
  • 昇明中、太祖が斉王であった時、司空褚淵に太廟登歌二章を作らせ、建元初には黄門侍郎謝超宗に廟楽歌詩十六章を作らせた。
  • 永明二年、尚書殿中曹は、太祖高皇帝廟神室で「高徳宣烈之舞」を奏するがまだ歌詩がなく、郊祀に配する際にも歌辞が必要であり、穆皇后廟神室にも歌辞がないと奏上した。傅玄の「登歌は廟ごとに文を異にし饗神は十室同辞とすべき」との説を引いてこれを是とし、また漢代以来の歌篇の句数の変遷(多くは八句ごとに転韻、張華・夏侯湛も同様、傅玄は転韻が頻繁で簡節の美を損ねた、近世の王韶之・顔延之は四韻ごとに転じて緩急の中を得た)を踏まえ、顔延之・謝荘の三廟歌に倣い各三章・章八句とすることとした。郊配の日には尊を降して主とする礼が宗廟と異なり、穆后の母儀の化も経綸と異なるため、この二歌はそれぞれ一章八句として別に奏することとされ、詔可された。尚書令王儉が太廟二室及び郊配の辞を作った。
  • 群臣出入時の「粛咸楽」、牲出入時の「引牲楽」、薦豆呈毛血時の「嘉薦楽」(以上夕牲歌)、迎神の「昭夏楽」、皇帝が廟の北門に入る際の「永至楽」、大祝が地に祼する際の登歌が奏された。
  • 皇祖・皇曾祖ら歴代の神室にはそれぞれ「凱容楽」が作られた――皇祖広陵丞府君、皇祖太中大夫府君、皇祖淮陰令府君、皇曾祖即丘令府君、皇祖太常卿府君の各神室。
  • 皇考宣皇神室には「宣徳凱容楽」、昭皇后神室には「凱容楽」が奏された。皇帝が東壁に還り福酒を上げる際は「永祚楽」、送神には「肆夏楽」、便殿に詣る際は「休成楽」が奏された。
  • 太廟登歌辞は二章。太祖高皇帝神室では「高徳宣烈楽」、穆皇后神室では「穆徳凱容之楽」、高宗明皇帝神室では「明徳凱容之楽」が奏された。

藉田の楽歌

  • 藉田歌辞は、後漢章帝元和元年に玄武司馬班固が『詩経』商頌「載芟」を用いて先農を祠った例に始まる。晋の傅玄は先農・先蚕の夕牲歌詩一篇(八句)、迎送神一篇、社稷・先農・先聖・先蚕を饗する歌詩三篇を作り、いずれも田農の事を叙した。胡道安も先農饗神詩一篇(八句)を作り、楽府には旧歌三章が伝わっていた。
  • 永明四年の籍田に際し、驍騎将軍江淹に藉田歌を作らせ、淹は胡・傅の辞に依らず二章を製作、世祖が口勅で太楽に付し歌わせた。先農を迎送する升歌と饗神歌辞が伝わる。

元会大饗の楽歌

  • 元会大饗四廂楽歌辞は、晋泰始五年に太僕傅玄が正旦大会の行礼歌詩四章・寿酒詩一章・食挙東西廂楽十三章を撰し、黄門郎張華が上寿食挙行礼詩十八章を作った。中書監荀勗・侍郎成公綏はそれぞれ異なる数の詩を作った。宋の黄門郎王韶之は肆夏四章・行礼一章・上寿一章・登歌三章・食挙十章・前後舞歌一章を作り、斉ではその大半を旧辞のまま用い、前後舞二章と臨軒楽のみ新たに改めた。
  • 肆夏楽歌辞(客が四廂に入る際、皇帝が当陽する際など)、大会行礼歌辞、上寿歌辞、殿前登歌辞、食挙歌辞、前舞・後舞の階歩歌辞と凱容歌詩(新辞・旧辞が併存)が収められている。

舞と伎楽

  • 「宣烈舞」は干戚を執って郊廟で舞われ、平冕・黒介幘などの服制が定められている。もとは秦が改めた「五行」、漢高祖が作った「武徳舞」に由来し、天下を平定した徳を象る。魏文帝は「五行」を「大武」に改め、「武徳」を「武頌舞」と改称、明帝はさらに「武始舞」を作った。宋孝建初の朝議では「凱容舞」を「韶舞」、「宣烈舞」を「武舞」としたが、これは古の「大武」であって「武徳」ではないとされ、世間では「武王伐紂」と俗称されている。
  • 「凱容舞」は羽籥を執って郊廟で舞われ、もとは舜の「韶舞」に由来し、漢高祖が「文始」と改称、魏はさらに「大韶」、次いで「咸熙」を文舞として作った。晋の傅玄は「六代舞」に虞韶舞辞を作り、宋では「凱容」を韶を継ぐ文舞として魏の咸熙の冠服を用いた。
  • 舞曲の総称は、傅玄の歌辞「獲罪於天、北徙朔方…」など十余りの小曲に由来するとされる。「明君辞」(漢章帝の作った鼙舞歌、魏明帝の代漢曲、傅玄の代魏曲・晋洪業篇を経て辞句が改変された経緯を持つ)「聖主曲辭」「鐸舞歌辭」「白鳩辭」(呉人が孫皓の虐政を諫めた作とされ、原辞は「平平白符」であったとの異伝がある)「濟濟辭」(晋済済舞歌六解の最後の解)「獨禄辭」(晋独鹿舞歌六解の一解、風刺の辞かとされる)「碣石辭」(魏武帝の作「東臨碣石」の詩、晋が碣石舞歌四章とした)「淮南王辭」(晋淮南王舞歌六解)「齊世昌辭」(もと晋「杯槃歌」で「晋世寧」→宋「宋世寧」→斉「斉世昌」と改称され、干宝によれば杯槃の翻覆は世の危うさを象るという)「公莫辭」(意味の取りにくい句を含む晋公莫舞歌二十解の古辞。建武初、明帝がこの曲を聞いて永明楽に似ていると涙して世祖を偲んだという逸話がある)「白紵辭」(尚書令王儉の作。呉の童謡・孫権の公孫淵征伐の故事に由来するとされる)「俳歌辭」(侏儒が舞いながら自ら歌う古辞)が朝会楽として伝わる。
  • 角抵・像形などの雑伎は漢の張衡「西京賦」に見えるのが最初とされ、魏・晋を経て伝承されたが、東晋咸和年間に廃絶した伎(紫鹿跂行・鼈食笮鼠・斉王卷衣・絶倒・五案等)もあり、由来は不明という。前秦苻堅の敗後に得た関中の檐橦胡伎も太楽に伝わり、存否は不明という。
  • 永明六年、赤城山に石橋瀑布が現れた瑞祥を受け、太楽令鄭義泰が孫綽の賦に基づき「天台山伎」を作ったが、まもなく廃された。「鳳凰銜書伎歌辞」は元会の日に侍中が殿前でその書を受け取る趣向で、宋代の辞(大宋興隆…)を斉初に中書郎江淹が改めた。
  • 「永平楽歌」は竟陵王蕭子良と文士たちが作り十曲からなる。道人釈宝月の辞は特に評価が高く、世祖が常に管弦に合わせて演奏させたが、正式には楽官の楽として列せられなかった。

史論

六代の楽制を総合的に採り入れ、和平・八風の徳を殷薦して宴享に供し、舞は徳を、歌は功を顕彰するものである。