南北史演義第九十二回 塞北を巡り啓民可汗を厚く撫し、河西に幸し吐谷渾を窮討する (巡塞北厚撫啟民汗 幸河西窮討吐谷渾)

江都からの帰還と太子昭・楊素の死

  • 江都で越年した煬帝は大業二年、東京の宮苑完成を受けて洛陽に戻る。留守中に朝見した太子昭は冷淡に扱われ、失意のうちに病没する(諡・元德)。昭の三子檦・侗・侑はそれぞれ王に封じられる。
  • 楚公(越公より改封)楊素も病死する。煬帝は内心「死なずにいれば九族を滅ぼした」と語りながら、表向きは手厚く追贈する。

廃太子勇の遺児らの誅殺

  • 廃太子楊勇の子ら(雲昭訓所生の儼ら)は既に爵位を剥奪されていたが、雲定興が宇文述に取り入り讒言したことから、儼は鴆殺、他の七子も辺境へ流されたのち賜死される。
  • 襄城王恪の妃柳氏は夫と生死を共にすると誓い、恪の死後に自ら命を絶つ。その貞節が特筆される。

突厥啓民可汗の朝貢と散楽

  • 突厥の啓民可汗が入朝を願い出る。煬帝は威容を誇示するため天下から散楽の芸人を集め、西苑で幻術さながらの雑戯を披露させる。
  • 高熲は散楽を「本を捨てて末を逐う」ものと諫めたため、煬帝の旧怨に触れ疎まれる。
  • 大業三年、啓民可汗は漢の衣冠を望むが、煬帝は「風俗を強いない」との詔で辞退させつつ厚遇する。

塞北巡幸と長城修築

  • 煬帝は啓民の牙帳を訪れ、大帳での盛宴・貢馬・厚い返礼を行う。長孫晟の機知で啓民に牙帳を掃除させる逸話も描かれる。
  • 百余万の丁男を徴発して長城を大規模に修築。これに私議した高熲・宇文闇・賀若弼の三重臣は讒言により処刑され、蘇威も連座して罷免される。
  • 観風行殿など巡幸用の壮大な施設が造られ、啓民は跪迎して奉仕し、高麗使臣にも入朝を強く促す(後の東征への伏線)。

裴矩の西域経営と吐谷渾討伐

  • 裴矩は西域諸国の情勢をまとめた『西域図記』を献上し、利益で誘って朝貢させる策を進言、西域経営が本格化する。
  • 西突厥の処羅可汗は、母が長安にいる縁を利用した崔君肅の説得で入朝と吐谷渾討伐への協力を約束する。
  • 大業五年、隋軍は吐谷渾を大破し東西四千里・南北二千里の故地を奪い郡県を置く。煬帝自ら河西に出て諸将を四方に配して伏允を追うが、張定和は伏兵に討たれ戦死。最終的に高昌王・西域諸国の使者が服属を示し、燕支山での大観兵式が行われる。

評語

  • 突厥内附・吐谷渾平定は隋の最盛期を象徴する出来事だが、煬帝の無徳ぶりを思えば、この帰服は天が驕りを助長するための試練とも言える。異民族の服属は利によるものに過ぎず、利益が尽きれば離反する。外患が来る前に内訌が生じるのは必然であり、これを招いた裴矩の責任は重い。