南北史演義太子勇が讒に遭い廃され、庶人秀が幽錮され冤を蒙る(0088 第八十八回 太子勇遭讒被廢 庶人秀幽錮蒙冤)
東宮の乱れ
- 太子楊勇は声色に耽り、雲昭訓の父・雲定興らの佞臣に囲まれていた。左庶子裴政の諫言は聞き入れられず、太子はむしろ彼を遠ざけて唐令則を左庶子に据えた。右庶子劉行本や太子洗馬李綱がたびたび諫めたが、太子は聞く耳を持たず、宴楽にふけった。
廃立の兆しと東宮の動揺
- 廃立の噂が東宮に伝わると、太子は占い師王輔賢の凶兆の言に慌て、巫術や厭勝の術に頼るようになった。隋主が楊素に東宮の様子を探らせたところ、太子の態度が横柄に映り、楊素は「太子に怨望あり」と報告した。独孤后の密偵も太子の過失を次々と報告し、あるいは誣告も交えて罪を構成した。晋王広も部下を使って東宮の佞臣姫威を抱き込み、内情を探らせた。
太子勇の廃位
- 隋主は東宮の警備強化を「反逆の兆し」と受け取り激怒、唐令則らを捕らえて糾問させ、楊素に東宮の罪状を述べさせた。楊素は太子の驕慢と密謀を誇張して報告し、隋主は太子の非行を数え立てて左衛大将軍元旻の諫言も退けた。
- 姫威が太子の悪事を訴え出るに及び、隋主は開皇二十年十月、ついに太子勇を廃して庶人とする詔を下した。太子の子らも王公の位を剥奪され、唐令則・元旻ら関係者は処刑または流罪に処された。史万歳も楊素への不満を口にして隋主の怒りを買い、殺害された。太子洗馬李綱は「輔導を誤ったのは陛下ご自身」と直言し、隋主も一時黙らざるを得なかった。
晋王広の立太子
- 数日後、晋王広が立太子となり、廃太子勇は東宮に幽閉され、晋王広の監視下に置かれた。太子勇はたびたび父への直訴を試みたが、楊素の讒言によって「狂気の沙汰」とされ、隔離はさらに厳しくなった。
独孤后の死と隋主の兆し
- 房彦謙・房玄齢父子は密かに隋の将来を憂え、楽師万宝常も新しい宮廷音楽の乱れを聞いて隋の滅亡を予言し、絶食して没した。太史令袁充の瑞祥説によって隋主は年号を仁寿と改め、王劭の『皇隋霊感志』を頒布して自らの正統性を誇示した。
- 仁寿元年、独孤后が病に倒れ、同年八月に没した(五十歳)。太子広は葬儀で悲嘆を演じつつ、私室では平然と飲食していたと伝わる。陵墓を選んだ蕭吉は「隋は三十年、二世で滅びる」との密言を友人に漏らしたという。
蜀王秀の失脚
- 隋主第四子・蜀王秀は益州で奢侈な振る舞いが目立ち、隋主に警戒されていた。太子勇の廃位後、晋王広は蜀王秀にも脅威を感じ、楊素に讒言させて罪状を捏造。木偶を用いた呪詛の偽証拠まで作り上げ、隋主に提出した。隋主は激怒して蜀王秀を庶人に落とし、内侍省に幽閉、連座した者は百余人に及んだ。隋主はさらに秀の十の罪状を数え上げる詔を下した。
- 貝州長史裴粛が寛大な処置を求める上書をしたが、聞き入れられず官を免じられた。
評語
- 太子勇は必ずしも大きな過失があったわけではなく、輔導する良臣を得られなかったことが災いした。独孤后の偏愛と晋王広の詭計、楊素の助力がなければ廃されずに済んだ可能性もある。隋主は北斉高歓の子の放縦を戒めとしながらも、妻子の讒言に陥り、かえって高歓以上に惑わされた。蜀王秀も廃太子勇に比べれば大罪とまでは言えず、楊広・楊素の陰謀によって庶人に落とされた点で同様の犠牲者である。楊広の陰険さと隋主の溺愛による判断の鈍りは、後世への戒めとされる。