南北史演義罪を反じて功と為し宮を築き賞を邀め、剿を撫に寓し虜を徙し辺を実にする(0086 第八十六回 反罪為功築宮邀賞 寓剿於撫徙虜實邊)

楊雄・楊瓚兄弟の処遇

  • 隋の左衛大将軍楊惠は功により楊雄と改名し、邗国公から広平王へ進んだ。人望厚く「長安四貴」の筆頭とされたが、隋主楊堅はその人望を警戒し、兵権を奪う形で司空に転じさせた。楊雄は隋主の意図を悟り、門を閉ざして客を断ち、政事に関わらぬ姿勢を示して清漳王、さらに安徳王へと改封され、無事に世を渡った。
  • 隋主の同母弟・滕王楊慧(のち瓚と改名)は北周武帝の妹・順陽公主を妻としていた。楊瓚は隋主が周の宇文氏を滅ぼしたことを快く思わず、公主も宗族を思って悲嘆に暮れ、独孤后とも折り合いが悪かった。独孤后は隋主に離婚を勧め、楊瓚は抵抗の末にやむなく応じたが、以後は冷遇された。開皇十一年、栗園での宴の直後に急死し、独孤后の毒殺と暗に示唆される。隋主は特に追贈もせず公主を除籍したが、諸臣の申し立てでようやく「穆」の諡号が与えられた。同夜、上柱国の鄭訳も病没している。

蘇威・高熲・楊素の政争

  • 蘇威の子・蘇夔は音律に通じ、国子博士何妥と礼楽の是非を争った。群臣の多くが蘇威に迎合し蘇夔に賛同したため、何妥は憤って蘇威父子や盧愷、薛道衡ら数名を朋党・私用の罪で弾劾した。取り調べの結果、蘇威は官爵を剥奪されて庶人となり、盧愷は除名、薛道衡らは軽い処分にとどまった。
  • 楊素が右僕射となり高熲と共に朝政を執った。楊素は器量で高熲に及ばないとされ、旧臣を軽んじたため反感を買った。大将軍賀若弼は自らの手柄が楊素に及ばぬのに宰相の座を奪われたと不満を漏らし、隋主への発言も不遜であったため投獄されたが、死一等を減じられ職を解かれた。翌年に爵位を戻され、蘇威も後に邳公として復権し納言に復帰した。
  • 上柱国韓擒虎も気位の高い人物であったが、天寿を全うして没した。開皇十六年、その死の前後には「閻羅王として迎えられる」という怪異譚が伝わったが、真偽は定かでない。

仁寿宮の造営

  • 隋主は楊素に岐州北で仁寿宮の造営を命じ、宇文愷・封徳彝が土木監として過度な労役を課した。工匠らは昼夜を問わず酷使され、多数が死亡し遺骸は谷を埋めるほどであったが、二年余りをかけて壮麗な仁寿宮が完成した。
  • 高熲は視察して奢侈に過ぎると報告し、隋主は楊素を叱責しようとした。楊素は独孤后に取り入り、后の口添えで隋主の怒りは和らぎ、逆に功労者として厚く賞された。楊素は功を封徳彝に譲る形を取り、封徳彝も内史舎人に昇進した。以後、隋主は仁寿宮に宮女を常駐させるようになり、次第に声色に耽るようになった。

大義公主の詩と突厥情勢

  • 隋は陳叔宝の屏風を突厥の大義公主(都藍可汗の可賀敦)に贈ったが、公主は亡国の身を嘆く詩を屏風に書いて送り返し、隋主の不興を買った。
  • 大義公主は胡人安遂迦と密通し、亡命者楊欽の虚言に乗じて都藍可汗を唆し、辺境を侵させた。隋は長孫晟を派遣して事情を探らせ、楊欽と安遂迦を捕らえて処刑し、公主の廃号を都藍に求めたが、都藍は聞き入れなかった。
  • 隋は美女を送って都藍の関心をそらす一方、突利可汗(染乾)に対しては「公主を殺せば婚姻を許す」と持ちかけた。染乾の流言に乗せられた都藍はついに大義公主を殺害し、隋に和親を求めた。長孫晟は都藍の不信を説き、むしろ染乾を懐柔して南に移し隋の藩屏とする離間策を進言、隋主はこれを採った。

内外の政務

  • この間、史万歳が南寧の蛮酋爨震を討って三十余部落を降し、周法尚が桂州の俚族反乱を平定、漢王楊諒は高麗遠征に赴くも功なく撤兵した。
  • 秦王楊俊は妃の崔氏に毒を盛られて病没、崔妃は賜死。虞慶則は愛妾と長史什柱の姦通に絡む讒言で殺され、什柱は逆に封を受けた。王世積は皇甫孝諧の讒言により処刑され、関係した高熲らも連座した。独孤后の異母弟独孤陀は「貓鬼」の妖術で人を害したとして死罪を命じられたが、独孤后が涙ながらに減刑を願い出て一等減じられた。崔長仁も独孤后の縁戚でありながら国法により処刑された。隋主晩年の政治にはこうした猜疑と刑罰の乱れが目立った。

突厥討伐と啓民可汗

  • 開皇十九年、隋は漢王諒を元帥とし高熲・楊素・燕栄らに突厥を分討させた。突利可汗(染乾)はすでに隋との婚約を得ていたが、これに怒った都藍可汗は達頭可汗と結んで突利を急襲し、大敗させた。突利は長孫晟に導かれて隋に逃れ、優遇された。
  • 隋軍は高熲・楊素の両路から都藍・達頭を撃破し、多くの捕虜と家畜を得た。隋主は突利を啓民可汗に封じ、大利城を築いて居住させた。安義公主は移住の途上で病没したため、隋はさらに義成公主を嫁がせ、啓民のために牧地を与え、趙仲卿らに守らせた。
  • 達頭は都藍死後に自立して歩迦可汗を名乗り再三隋の辺境を侵したが、長孫晟の毒水の計や史万歳の追撃によって撃退され、啓民は感謝の意を表す上表を献じた。隋主は金河・定襄の二城を築いて啓民を保護した。

評語

  • 漢の蕭何が未央宮を壮麗に築いて高祖に咎められた故事と、楊素が仁寿宮を壮麗に築いて隋主に咎められた故事は似るが、いずれも最後は寵臣の言い逃れや后妃の取り成しによって咎めが功に転じてしまった。両君主とも物欲に惑わされ前後の言に矛盾を生じた点で共通する。
  • 隋主の功臣に対する猜疑は漢高祖に似るが、隋は簒奪により国を得たうえ北周の宇文氏を滅ぼした大悪があるだけに、その正統性は漢に遠く及ばない。
  • 長孫晟の二度にわたる離間策(沙鉢略、突利)は突厥諸部を互いに争わせ、隋に漁夫の利をもたらした点で功績は大きい。ただし和親策そのものは、漢の婁敬の故事同様、根本策とは言えず、王道による四夷の守りにこそ及ばないと評される。