南北史演義第081回 鄴城を失い皇親が自刎し、周室を簒い勲戚が代わって興る (失鄴城皇親自刎 篡周室勛戚代興)

趙王招の陰謀と誅殺

  • 楊堅は趙王招の招きで危うく害されかけたが、大将軍元冑に助けられて脱出した。
  • 楊堅は趙王招が越王盛と謀反したと訴え、兵を出して両王の府邸を包囲し、一族を皆殺しにした。元冑には厚く褒賞を与えた。

尉遅迥の挙兵と後梁の去就

  • 益州総管王謙も蜀で挙兵し、尉遅迥・司馬消難らと連携。尉遅迥は後梁にも援軍を求めた。
  • 後梁の諸将は挙兵を勧めたが、梁主蕭巋は柳荘を周に遣わして情勢を探らせた。楊堅は柳荘に旧誼を説き協力を求めた。柳荘は帰国後、周の将相が既に楊氏に帰服しており尉遅迥らは結局敗れると梁主に進言し、梁主は静観を選んだ。

韋孝寛と尉遅迥の対決

  • 周の行軍元帥韋孝寛は沁水を挟んで尉遅迥軍と対峙。長史李詢は梁士彦らが迥から賄賂を受けたと密告し、楊堅は将を替えようとしたが、李徳林の諫めで思いとどまり、代わりに監軍を送ることにした。
  • 崔仲方・劉璆・鄭訳はいずれも辞退し、結局高熲が志願して出発、韋孝寛と協議して沁水に橋を架けて渡河、尉遅惇(迥の子)の軍を撃破した。高熲は退路を断つため橋を壊し、将士を決死の戦いに追い込んだ。
  • 韋孝寛は鄴城下まで追撃。宇文忻は観戦する士民に矢を射させて混乱させ、それに乗じて尉遅迥軍を総崩れにした。迥は城中に逃げ込んだが、周将崔弘度に追い詰められ、自ら剣で自刎した。弘度の弟弘升がその首を取り、孝寛に献じた。
  • 尉遅迥の挙兵はわずか68日で潰えた。迥の子勤・惇・祐のうち、勤は書状を出した経緯から赦されたが、惇・祐は処刑された。

各地の反乱鎮圧

  • 韋孝寛は関東の叛吏を次々に平定。楊堅は相州の治所を安陽に移し、鄴城とその市街を取り壊し、相州を毛州・魏州に分割した(勢力を分散させる狙い)。
  • 行軍総管於仲文は檀譲の軍を破り、梁郡・曹州を攻略、檀譲を捕らえて長安に送った。宇文威・宇文冑らも楊素により平定された。
  • 司馬消難は尉遅迥の敗北を知ると恐れをなし、南朝陳へ逃亡・投降した。陳主頊は彼を車騎将軍・司空に任じた。王誼はこの功で戦捷を報告した。
  • 楊堅は情勢が定まったことで大丞相を自称し、左右丞相の官を廃した。また陳王純とその子数人を殺害した。

王謙の敗死

  • 益州総管王謙は各地の敗報を聞いて動揺。隆州刺史高阿那肱の献策(上策:散関へ直進、中策:梁漢に出兵、下策:剣南に籠城)のうち中・下策の折衷を取り、乙弗虔・達奚惎に利州を守らせた。
  • 周の西征元帥梁睿の軍に対し蜀兵はすぐ潰走。乙弗虔・達奚惎は密かに梁睿に内応を約し、成都に退いて王謙を城に入れず裏切った。王謙は新都県令王宝に殺され、首を長安に送られた。高阿那肱も捕らえられ処刑、乙弗虔・達奚惎も梁睿により斬られた。

周室簒奪への道

  • 鄖国公韋孝寛は凱旋後まもなく72歳で病没。学問を好み清廉な人物であったが、楊堅の爪牙となり周を滅ぼす一因を作ったことは惜しまれる。楊堅は太傅を追贈し諡を襄とした。
  • 鄭訳は次第に楊堅から疎まれ、辞職を願い出た。
  • 周の五王のうち既に三王が害され、残る代王達・滕王逈も謀反の罪を着せられ自尽させられた。
  • 楊堅は相国・総百揆・隋王に進み、九錫の礼を受け、王妃独孤氏を王后、世子勇を王太子とした。
  • 大象3年2月、周主闡(静帝)は禅譲の詔を下し、隋王への譲位を宣言。冊書も交わされ、楊堅は形式的な辞退を経て受禅した。

隋朝の成立

  • 甲子の日、楊堅は袞冕を着け百官に擁立されて即位。国号を隋(「随」の辵を除いた字)とし、開皇と改元した。
  • 郊祀を行い、周の官制を漢魏の旧制に改め、三師三公・五省・二台・十一寺・十二府などを設置。高熲を尚書左僕射兼納言、虞慶則を内史監兼吏部尚書、李徳林を内史令、元冑を左衛将軍とした。父の忠を武元皇帝、母の呂氏を元明皇后と追尊、独孤氏を皇后、長子勇を皇太子とした。

楊氏の出自と伝説

  • 楊氏は弘農の出で漢の楊震の後裔と伝えられる。堅誕生時、尼僧が「この子は俗世に置くべきでない」と語ったという奇瑞の逸話が記される。
  • 周主闡は介公に格下げされ、別宮に移された。周太后(楊堅の長女)は父の簒奪に憤りを抱いたが抗えず、後に楽平公主と改封され、再嫁を拒んで生涯を守った。
  • 周の他の太后・皇后たちはそれぞれ出家するか病没するかした。

竇毅の娘の逸話

  • 周氏の諸王は皆公に格下げされた。皇族・功臣に新たな封爵が行われた。
  • 定州総管竇毅の娘(周太祖の外孫)は隋の受禅を聞き「男子であれば舅の危難を救えたのに」と嘆いた。後にこの娘は唐公李淵に嫁ぎ、唐の皇后となった。

宇文氏皆殺し

  • 内史監虞慶則は隋主に宇文氏を根絶やしにするよう勧め、高熲・楊惠も同調したが、李徳林だけは反対した。隋主は「お前は書生で大事を語るに足らぬ」と退け、宇文泰の子孫を悉く捕らえて自殺させた。
  • まもなく介公闡(静帝、当時9歳)も宮中で殺害された。周は閔帝覚の簒魏から静帝闡の滅亡まで5代25年で滅んだ。

(詩:九齢の幼主の罪は論じ難く、慘禍は忽ち一門を滅ぼした。宗廟の覆滅を外戚のせいとするな、禍の根源はもとより天元〔宣帝〕自身にある)

隋主堅は宇文氏を滅ぼし帝位に安んじ、李徳林を疎んじて別の側近を重用し始めた。その人物が誰かは次回に明かされる。

評語

  • 周末の挙兵は尉遅迥を首謀としたため、本回では迥の死を詳しく描き、惋惜の意を込めた。韋孝寛は北周の重臣でありながら楊堅を助けて迥を敗死させた。迥は才は孝寛に及ばずとも義に殉じて名を残し、孝寛の死は淡々としたものに過ぎず、後世に卑しまれる余地がある。本回で孝寛の事績を褒めるように書いているのは、実はその裏で貶める意図がある。
  • 楊后麗華は柔順でありながら暴君に仕えてよく后妃たちと和した徳があり、父の受禅に際しては憤りを示した。周の社稷は救えなかったが、国を売って栄達を求めた廷臣たちとは大きな隔たりがある。
  • 竇毅の娘も年若くして舅の危難を憂えた志は、七尺の体を持ちながら気概のない男たちを恥じ入らせるものである。