南北史演義宇文の婦が酒に酔い身を失い、尉遅公が城に登り衆に誓う(0080 第八十回 宇文婦醉酒失身 尉遲公登城誓眾)
天元皇帝の奇行
周主贇は即位早々、七歳の太子宇文衍(闡と改名)に譲位して自らは「天元皇帝」を称し、宮殿名や礼制・称号を次々に改変した。臣下に対して神格化した振る舞いを求め、些細な過失にも「天杖」と称する厳罰(百二十打)を科すなど、奇矯な統治を行った。
五后の並立
贇は楊堅の娘(のち天元太皇后)のほか朱氏・元氏・陳氏・司馬氏を次々に后妃とし、称号を目まぐるしく改めては五后を並立させた。
突厥との和親と南征
突厥との和親を進める一方、韋孝寬・梁士彦らに命じて陳への南征を行わせ、壽陽・黄城・廣陵などを攻略した。
尉遲氏凌辱事件と杞公亮の乱
贇は朝賀に参内した杞国公の子婦・尉遲氏(蜀公尉遲迥の孫女)に横恋慕し、酒に酔わせて強姦した。これを知った杞国公宇文亮は韋孝寬の陣営を奇襲しようとしたが空振りに終わり、韋孝寬に討たれて一族も誅殺された。尉遲氏は宮中に留め置かれ、贇の寵妃となった。
楊后への虐待と楊堅暗殺未遂
贇は寵妃を増やす一方、諫言した皇后楊氏(楊堅の娘)を折檻し自殺を強いようとしたが、楊后の母の必死の嘆願で辛くも助命された。また楊堅を除こうとしたが、楊堅の泰然とした態度に手を出せず未遂に終わった。
楊堅の輔政と贇の急死
楊堅は鄭譯に密かに地方転出を図らせていたが、贇が急病で倒れ声を失うと、劉昉・鄭譯らの主導で楊堅が輔政の任に就いた。顔之儀は趙王招を推して抵抗したが押し切られ、贇は間もなく息を引き取った(在位実質三年、享年二十二)。
楊堅の実権掌握
楊堅は幼主闡を擁立して自ら丞相の実権を握り、諸王を都に召還して兵権を奪い、李德林・高熲ら有能な人材を登用して統治体制を固めた。漢王贊は劉昉の策で美妓に籠絡され、政務から遠ざけられた。
尉遲迥の挙兵
楊堅の簒奪の意図を察した相州総管・尉遲迥は挙兵を決意。韋孝寬を新任の相州総管として送り込む楊堅側の策謀を、韋孝寬自身が機転で察知して難を逃れた。楊堅は諸将を動員して尉遲迥討伐を進める一方、鄖州の司馬消難も挙兵に呼応した。
趙王招の謀と元胄の機転
趙王招は楊堅暗殺を企てて自邸に招いたが、随行した元胄が異変を察知し、楊堅を無事に脱出させようと戸口で立ちはだかった。(詩:忠義と保身の間で揺れる元胄の立場を詠む内容)
評語
周主贇の淫乱と暴政は目に余るものであり、なかでも尉遲氏凌辱の一件は最も醜悪である。贇の非道もさることながら、尉遲氏自身が身を全うできず一族の破滅を招いたことも痛ましい。尉遲迥・司馬消難の挙兵は名分の立つ忠義の行動であったが、贇の悪政の果てに天がすでに周を見放していたとすれば、その成否は人力の及ぶところではなかった。それでも尉遲迥が国のために死を賭したことは、千古に語り継がれるべきである。