南北史演義老将が謀を失い還師で虜となり、昏君が嗣位し惨戮の冤に沈む(0079 第七十九回 老將失謀還師被虜 昏君嗣位慘戮沈冤)
高緯一族の末路
溫公に封じられた高緯は馮小憐の返還を周主に願い出て許された。周主の宴で高緯に舞を舞わせるなど屈辱を与えたのち、謀反の讒言を口実に高緯とその一族・北齊宗室は皆賜死となった。延宗も自ら命を絶った。高緯は在位十二年、死時二十二歳であった。
齊皇族の零落
高緯の母胡氏、幼主の母穆氏はいずれも長安で身を落とし、俗に身を委ねる有様となった。任城王湝の妃盧氏は尼となり、馮小憐は周主の命で代王宇文達の妾となったが、のちに達の正妃李氏との確執や楊堅の周簒奪の混乱を経て、最後は虐待の末に落命した。
範陽王高紹義の抵抗
突厥に亡命した高紹義は營州刺史高寶寧らの支持を得て自ら齊帝を称し兵を挙げたが、周の宇文神舉に討たれて勢力を失った。
陳の彭城遠征と吳明徹の敗北
陳主頊は北齊滅亡を機に吳明徹に彭城攻略を命じたが、諫言した蔡景歷は退けられた。周将王軌が清水下流を鎖で塞いで陳軍の退路を断ち、吳明徹は蕭摩訶の献策(先行退却策)を容れず対応が遅れて全軍潰滅、自身も捕らえられて長安で憂憤のうちに没した。
周主邕の崩御
周主邕は北伐の準備中に病を発し、宇文孝伯に後事を託して三十六歳で崩御した。在位十九年、質素倹約と勤勉を旨とした名君であったが、太子贇の不肖には最後まで手を焼いた。
太子贇の即位と粛清
贇は即位すると本性を現し放縦に流れた。齊王宇文憲は於智の讒言により無実の罪で絞殺され、一族も連座して誅された。王軌も鄭譯の讒言により誅殺され、宇文孝伯・尉遲運・宇文神舉も相次いで死に追いやられた。
樂運の直諫
京兆郡丞樂運は棺を担いで参内し、周主贇の八つの過失を諫めたが、周主は激怒して投獄を命じた。元岩の取り成しでかろうじて赦免された。
忠臣たちの受難
王軌は自らの死期を悟りながらも先帝への忠義を貫き誅殺された。宇文孝伯・尉遲運も相次いで非業の死・病没を遂げた。(詩:功臣が次々粛清される北周の末路を歎じる内容)
評語
周主邕は英武の主であり、平齊・破陳ともに将帥の適材適所によって成し遂げられた。しかし人を知ると称されながら我が子を知らず、庸愚な贇に大統を継がせたのは大きな誤りであった。贇の即位後の粛清の数々は、周主邕の後継選びの失策に起因する。宇文憲らも伊霍のような果断な行動を取れず座して誅を受けたのは、忠にすぎて智に欠けたと言わざるを得ない。