南北史演義晋州が陥り敗を転じて勝と為し、斉主を擒え乱を取り亡を侮る(0078 第七十八回 陷晉州轉敗為勝 擒齊主取亂侮亡)
穆提婆の投降と陸令萱の自尽
北齊敗色濃厚と見た穆提婆は周軍に投降し、周主邕は檄文を発して齊の君臣に降伏を促した。これにより齊臣が続々と周に走り、穆提婆の家族は誅殺された。陸令萱も自ら毒を仰いで自尽した。
安徳王延宗の即位
晉陽では唐邕らの推挙により安徳王高延宗が即位を余儀なくされ、徳昌と改元して将士を励まし、婦女子まで動員して防戦の準備をした。
晉陽攻防戦
延宗は自ら城外で奮戦し、一時は周軍を城内に誘い込み大打撃を与えて周主邕を危地に陥れた。周主は辛くも脱出したが、宇文忻らの進言で撤退を思いとどまり、夜明けとともに再攻撃。油断していた延宗軍は総崩れとなり、延宗も捕らえられた。周主は延宗を厚遇して助命した。
齊主緯の逃亡と幼主への禅譲
延宗の即位を任城王高湝は認めず、齊主緯も安德を許さなかった。周軍が鄴に迫る中、齊主緯は八歳の太子高恒に譲位し(承光と改元)、自身は太上皇となった。しかし国政の混乱は収まらず、廣寧王孝珩の高阿那肱誅殺計画も未遂に終わった。
鄴の陥落
周軍が鄴に迫ると齊の諸将は次々に降伏、あるいは討たれた。莫多婁敬顯は不忠・不孝・不信の三罪を数え上げられて斬られた。周主は儒者熊安生や李道林を礼遇するなど、鄴でも威望を示した。
齊主緯の逃亡と捕縛
齊主緯は幼主とともに南方への逃亡を図ったが、高阿那肱の裏切りにより行く手を阻まれ、南鄧村で周軍に追いつかれ一族もろとも捕らえられた。
齊室関係者のその後
北齊は高洋の建国から数えて六代二十八年で滅亡した(延宗・湝は正統に数えない)。任城王高湝・廣寧王孝珩は信都で挙兵したが周軍に敗れ捕らえられた。範陽王高紹義は突厥に逃れたが、後に諸城は次々と周に帰した。晉州の傅伏も高緯捕縛を知って降伏し、周主に厚遇された。周主は高緯以下を長安に連行し、太廟に献俘して凱旋、高緯を溫國公に封じた。(詩:寵妃を手放せぬ高緯の未練を諷する内容)
評語
安徳王延宗の即位はやむを得ざる事情によるもので、簒奪の野心からではない。東門の一戦で周主を危地に陥れた武勇は評価に値するが、しょせん一時の鋭気に過ぎず久しく保てるものではなかった。齊主緯が幼子に禅譲したのは滑稽の極みであり、腹心の穆提婆・高阿那肱がいずれも裏切ったにもかかわらず宗族を疑い続けたのは自滅を招いたに等しい。北齊が数代にわたり存続できたこと自体、すでに高氏の幸運というべきである。