南北史演義第七十三回 徳に背き兵を興し周師が再び敗れ、権を攬り位を奪い陳主が遷される (背德興兵周師再敗 攬權奪位陳主被遷)
宇文護母子の再会
高湛は元蠻(百年の外祖父)の失態を許して官を免じるにとどめた。かねて周の太師・宇文護の母・閻氏らは晋陽陥落の際に斉に捕らわれ、三十年余り生き別れとなっていた。晋陽での戦を機に、高湛は勲州刺史・韋孝寬を通じて護に「和議に応じれば母を返す」と伝え、母の消息を証拠として書状と昔の衣を届けた。母の切々たる手紙を受け取った護は号泣し、涙ながらに返書をしたためた。太師・段韶は「軽々しく母を返せば弱みを見せることになる」と諫めたが、高湛は聞き入れず護の母を周へ帰した。護は感激し、周主・宇文邕も歓迎の礼を尽くした。
周軍の再度の侵攻と大敗
護は母を返された恩義から和議を望んだが、突厥の木桿可汗が斉討伐への協力を求めてきたため、断りきれず二十万の大軍を発して洛陽方面へ進攻した。楊檦の別働隊は斉の婁叡に撃破されて降伏し、権景宣の軍は一時豫州・永州を落としたが、洛陽を囲んだ尉遲迥は苦戦した。斉は段韶・蘭陵王高長恭・斛律光を派遣し、段韶の指揮のもとで周軍を太和谷におびき出して大敗させた。蘭陵王は自ら陣頭に立って洛陽の囲みを解き、斛律光は追撃してきた周の猛将・王雄を弓で射倒した。周軍は総崩れとなり関中へ敗走、権景宣も豫州を放棄して撤退した。斉は大勝により段韶を太宰、斛律光を太尉、蘭陵王を尚書令に任じた。
祖珽の暗躍と禅位
才知はあるが素行の悪い祖珽は、和士開に取り入り、「太子に早く位を譲れば宮廷内での地位が安泰になる」と唆す。士開の進言もあり、高湛は河清四年、皇太子・緯に禅位して太上皇となった。緯(斉後主)は晋陽で即位し、天統と改元、斛律光の娘を皇后に立てた。祖珽は褒賞され重用された。
陳蒨の死と後継問題
陳の主・陳蒨は病が篤くなり、太子・伯宗が若年であることを憂えて弟の安成王・頊への譲位を持ちかけたが、頊は固辞し、群臣も反対したため、結局太子・伯宗が跡を継ぐこととなった。陳蒨は在位七年、四十五歳で崩じた。
安成王頊の台頭
伯宗(陳廃帝)の即位後、中書舎人・劉師知らが安成王頊を政権中枢から遠ざけようと図るが、毛喜の進言で頊はこれを見抜き、逆に師知を捕らえて死を賜った。到仲舉は左遷され、さらに右衛将軍・韓子高との謀議が露見して誅殺された。以後、政務はすべて頊の手に握られた。
華皎の反乱と周・後梁との戦い
韓子高と親しかった湘州刺史・華皎は、その死を不服として周に援軍を求め、後梁とも結んで反旗を翻した。陳は呉明徹・淳於量・楊文通・黄法慧らを派遣して迎撃、沌口の水戦では風向きの逆転により周・華皎軍の火攻めが自軍に返って大敗、周の元定も捕らえられて憤死し、後梁の将も捕虜となった。陳軍は大勝し、程靈洗は後梁の淝州を落とすなど戦果を上げた。
安成王頊の簒奪
戦功により権勢を強めた安成王頊は、始興王・伯茂の反発を受けながらも太皇太后を擁して百官を集め、陳主・伯宗を臨海王に、伯茂を温麻侯にそれぞれ廃黜する詔を発した。詔には伯宗の失政と、頊の輔弼の功が長々と述べられている。伯茂は幽閉先へ移される途中、賊に襲われ命を落とした。
評語
斉の高湛は在位中に多くの失徳があったが、宇文護の母を返還したことだけは孝の道理にかなっていた。護がそれに応えず突厥と結んで斉を攻めたのは不徳であり、その敗北は当然の帰結である。高湛は凱旋の後、祖珽の詭計にのって太子に禅位したが、まだ壮年でありながら実権を手放す必要はなかった。陳蒨は兄の子・衡陽王昌を除き、弟の安成王頊を残したが、それは母弟の方が信頼できると考えたためであろうか。しかし譲位の申し出も頊の固辞も、互いに偽りの態度であり、結局は嗣子が国を失い、叔父が帝位を奪う結果となった。到仲舉・韓子高は主のために死んだが、劉師知は不忠不義の末路であった。