南北史演義第七十回 勲戚を戮し皇叔が篡位し、懿親を溺れさせ悍将が謀を逞しくする (戮勛戚皇叔篡位 溺懿親悍將逞謀)
高洋の遺言と齊主殷の即位
- 病床の高洋は李后に後事を託し、常山王演には「奪位してもよいが我が子だけは殺すな」と告げて崩御(三十一歳)。群臣の哀哭に混じり、楊愔だけは実に悲しんだ。
- 婁太后は演の擁立を望んだが楊愔らが従わず、太子殷が即位(尊号など諸儀礼を実施)。演は太傅、湛は司徒などに任じられ、父洋を文宣皇帝と追尊した。
- 高陽王湜は不行跡を婁太后に叱責され杖罰の末に死去。演は一時政務に関わるが、楊愔らの警戒により表舞台から退けられる。友人の王晞・楊休之らは「摂政の実を取るべき」と暗に演へ即位を促した。
楊愔誅殺の政変
- 燕子獻・宋欽道らは演・湛両王の権勢を削ろうと画策し、李太后にも働きかけるが、この動きは婁太后側に漏れる。結果、演を録尚書事として鎮座させる妥協案に落ち着く。
- 拝職の宴に招かれた楊愔は危険を察しつつも出席し、湛の合図で伏兵に捕らえられる。子獻・鄭頤・可朱渾天和らも次々と拘束された。
- 演・湛は太皇太后婁氏の御前で「楊愔らの専権を除いた」と奏上。武衛将軍娥永樂が二王を討とうとするも婁太后に制止され、婁太后は齊主殷を叱りつけて処断を追認させる。楊愔・鄭頤・燕子獻・天和らは斬られ、娥永樂も誅殺された。
- 婁太后は後に楊愔の遺骸を見て涙し、金製の義眼を贈るなど複雑な態度を見せた。演は連座を寛大にしようとしたが湛の主張で一部連座が実行された。
高演の即位(皇建改元)
- 演は大丞相・都督中外諸軍事として晋陽に出鎮。王晞・趙彦深らの勧めもあり、次第に帝位への意志を固めていく。
- 太皇太后婁氏は当初「周公の故事に倣うべき」との侍中趙道德の諫めで演の要求を退けたが、ついに齊主殷を廃して済南王とし、演の即位を認めた。演は晋陽で即位し皇建と改元、母を皇太后、李后を文宣皇后とするなど改称を行い、天保期の弊政を改める一方、細事に厳しすぎるとの批判も受けた。
- 弟の湛を右丞相、淹を太傅、浟を大司馬とし、わずか五歳の子百年を太子に立てたことで、皇太弟を期待していた長広王湛との間に禍根を残した。
陳・王琳の最終決戦
- 梁丞相王琳は陳の代替わりに乗じて攻勢に出るが、周荊州刺史史寧の郢州急襲の報に動揺しつつ東進。陳の侯瑱は敗走を装って王琳軍をやり過ごし、後方から奇襲して大勝、王琳軍は壊滅した。斉の援軍将も捕らえられ、王琳はわずかな従者と共に北斉へ亡命し、擁立していた蕭荘も北斉へ逃れた。郢州も陳に降り、王琳の勢力は完全に瓦解した。
陳文帝の粛清と周・陳の和親
- 北周は人質だった衡陽王昌を陳へ帰したが、昌の不遜な書に激怒した陳主蒨は侯安都に命じて昌を江に沈めさせ、王礼で葬るという偽装を行った。
- 陳・北周間で和睦交渉が進み、捕虜の相互返還や領土の割譲を経て、安成王頊(陳主蒨の弟)が北周から帰還した。杜杲の弁舌により陳主蒨は言い誤りを咎められる一幕もあった。
北周の代替わり
- 北周では宇文護が周主毓を毒殺(糖餅に毒を仕込む)し、毓は遺言で弟の魯公邕への継承を託して没した(二十七歳)。邕が即位し保定と改元、宇文護は大冢宰として実権を握り続けた。
- 郢州・巴陵・湘州は北周から相次いで陳へ帰し、南朝は失地を回復した。
(詩:兄弟の情を破り、我が子のためだけに謀った陳主蒨を風刺する)
評語
楊愔は東魏の旧臣として斉の簒奪・故主廃逐に加担し母后を娶るなど人倫に背いた人物であり、その死は必ずしも冤罪とは言えない。高洋の暴虐に対して諫言した形跡もなく、二王排除も自らの地位保全のためであった。演が愔とその一党を誅したことで無実の連座も生じたが、愔自身に同情の余地は乏しい。演の簒奪もまた高洋の悪政が招いた必然であり、高洋が天寿を全うできたこと自体が僥倖であった。陳主蒨は侯安都に命じて衡陽王昌を害しながら、次子に始興の祭祀を継がせるなど肉親への薄情が目立つ。しかし弟頊はかえって生き永らえ、高洋が濬・渙を殺しながら演・湛を殺せなかったことと、蒨が昌を害しながら頊を害せなかったことは南北で軌を一にしており、これは肉親を大切にすべきという王道の理を示すものである。