南北史演義第六十九回 王琳を討ち屢次交兵し、高洋を諫め連番で責を受ける (討王琳屢次交兵 諫高洋連番受責)
王琳との緒戦、陳軍の大敗
- 陳の周文育・侯安都は王琳討伐に向かうが、指揮系統の不統一もあり苦戦。郢州では王琳方の潘純陀に阻まれ、沌口での決戦では逆風に翻弄され、周文育・侯安都以下多くの将が王琳軍に捕らえられる大敗を喫した。
- 捕虜となった文育・安都は宦官王子晋を買収して脱出に成功し、建康へ逃げ帰る。陳主霸先は彼らを赦し官職を戻した。
王琳の勢力と蕭荘擁立
- 王琳は湘州から郢城へ拠点を移し、北斉に款じて永嘉王蕭荘(元帝の孫)を擁立、皇帝に即位させ天啟と改元。自らは丞相となり陳への攻勢を再開した。
- 北江州刺史魯悉達は陳・王琳双方から誘われるが日和見を決め込み、いずれにも与しなかった。
南川平定戦
- 陳主は侯瑱・徐度らを派して王琳と対峙させる一方、周迪・餘孝頃らの離合をめぐる複雑な攻防が続く。
- 熊曇朗が周文育を裏切って殺害するが、曇朗自身も反撃を受け村民に討たれる。侯安都が態勢を立て直し常眾愛らを撃破、勝利を収めた。
陳霸先の死と後継
- 陳主霸先が崩御。嗣子昌は西魏(北周)に捕らわれたままで後継を定めておらず、皇后章氏や群臣が動揺する中、侯安都が強く主張して臨川王陳蒨を擁立、即位させた(陳文帝)。
- 霸先は質素な生活を旨とした名君と評される反面、簒奪という前代の悪習を脱せず、三年の在位で没し、子に恵まれなかった。
北斉高洋の乱行と最期
- 高洋は宮殿・三台・長城の造営を強行し、飛蝗の災いを指摘した崔叔瓚を辱め、上黨王涣・永安王濬を鉄籠に監禁の末に惨殺するなど暴虐を続ける。
- 常山王演も酒に溺れる高洋を諫めて杖打たれるが、母婁太后の懇願で命は助かる。太子殷への廃立をも仄めかすなど、宮廷は常に暴威の下にあった。
- 元韶ら魏の元氏一族三千人を虐殺するなど残忍を極めた末、高洋は病に倒れ、李后・常山王演に後事を託して崩御した(天保十年、陳主霸先没年と同年)。
(詩:夏桀・殷紂に並ぶ暴君でありながら、乱世ゆえに善悪の区別なく世を去ったことを詠む)
評語
王琳の梁への忠義は必ずしも偽りとは言えないが、斉に降り魏に款じるなど節操を欠いた。侯安都が「大義名分のない出兵」と評した通り、陳軍の緒戦の敗北はそれを裏付ける。陳霸先と高洋が同年に没したことは奇しき符合であり、高洋の悪行は霸先を遥かに凌ぐ。霸先は簒奪の大逆こそ犯したが、高洋の暴虐は古今稀に見るものであった。濬・涣は惨殺されたが演だけは幾度も死に瀕しながら生き延びた点も対照的である。