南北史演義第六十八回 宇文護が権を挟み逆を肆にし、陳霸先が国を窃み尊を称する (宇文護挾權肆逆 陳霸先盜國稱尊)

宇文泰の死と後継争い

  • 宇文泰は周礼に倣い六官制を定め、自ら太師大冢宰となる。世子選定では嫡子の覚を立てるべきか庶長子の毓を立てるべきか迷ったが、李遠の強硬な進言により嫡子覚が世子に決まる。
  • 西魏廓帝三年、泰は北巡の途上で病に倒れ、中山公宇文護に後事を託して没する(享年五十二)。

宇文護の実権掌握

  • 十五歳の覚が家督を継ぐが実務は担えず、名望に乏しい護に対し公卿は不服だった。護は於謹の後押しを得て公卿を威圧的に従わせ、実権を握る。
  • 護は覚を通じて西魏帝廓に禅譲を迫り、覚は天王に即位(国号周、後の北周)。廓は幽閉ののち毒殺され「魏恭帝」と諡された。ここに西魏(および北魏以来の系譜)は完全に滅んだ。

粛清の連鎖

  • 護の専横に対し趙貴・独孤信らが誅殺を謀るが露見し、趙貴は斬られ独孤信は自尽を強いられる。
  • 司会李植・軍司馬孫恒らも宇文覚を動かし護排除を図るが、密告により露見。李植は父李遠ともども処刑され、宇文覚自身も廃されて略陽公に落とされたのち殺害される。
  • 護は次いで岐州刺史の寧都公毓(宇文泰庶長子)を迎えて即位させる(周主毓)。毓の后独孤氏は父の非業の死を悲しみ病没した。

陳霸先の南方平定

  • 江陵陥落後の混乱の中、陳霸先は丞相として実権を握るが、南方で蕭勃が挙兵し「討逆」を名目に反抗した。霸先は周文育らを派遣して鎮圧に当たらせる。
  • 熊曇朗の裏切りなどの曲折を経ながらも、周文育は兵糧確保の策を講じつつ蕭勃方の歐陽頠・傅泰らを撃破し、最終的に蕭勃は部下に殺され、南方は平定された。歐陽頠は霸先に許され衡州刺史として登用される。

陳霸先の受禅

  • 霸先は王琳討伐の準備を進めつつ、自ら相国・陳公・陳王と進み、ついに梁主方智に禅譲を迫る。策命の文(美辞麗句を連ねた形式的な禅譲の詔)が発せられ、霸先は形だけの謙譲を演じたのち受禅を承諾。
  • 将軍沈恪は梁主を退去させる役を拒み霸先に涙して訴えたが、霸先は別の者に代行させた。梁は武帝蕭衍の簒奪から四代・五十六年で滅亡。

陳の建国

  • 霸先は南郊で即位し国号を陳、永定と改元。梁主方智は江陰王に落とされた。父母・先妻を追尊し、章氏を皇后に立てる。
  • 子の克は早世、次子昌と甥頊は西魏に捕らえられたままだったため遙封にとどめ、在都の甥蒨・曇朗らを王に封じた。
  • 梁の廃帝方智は結局翌年、陳主霸先によって害され、十六歳で没した(諡は梁敬帝)。

(詩:滄桑の変転の中で滅んだ梁室と、祖先の報いを子孫が受ける様を詠む)

評語

北周の簒奪は宇文覚自身の意志ではなく宇文護が主導したものであり、覚は許されるべきだが護は許されない。護は趙貴・独孤信の誅殺には言い訳の余地があったにせよ、覚を廃し弑逆したことに正当な理由はない。宇文泰ほどの英雄がなぜ逆賊たる甥に後事を託したのか、天が禍を用意していたとしか思えない。陳霸先も王僧辯を殺して実権を握り、蕭淵明を廃して方智を傀儡として立てたに過ぎず、幼主を掌中で弄んだ点は変わらない。蕭勃の討逆に大義はなかったが、霸先が憚る勢力がなくなったことで幼主はあっけなく排除された。蕭衍がかつて同族を手にかけたその報いが子孫に及んだとも言える。