南北史演義第六十四回 大憝が梁主を弑し兇を行い、侯賊を臠にし庶支が統を承ける (弒梁主大憝行兇 臠侯賊庶支承統)
宋子仙の最期と侯景の窮迫
- 敗走中の宋子仙・丁和は王僧辯配下の周鉄虎に捕らえられ、江陵へ送られて処刑される。方諸の消息も判明し(侯景に連行)、鮑泉はすでに殺されていたことが分かる。
- 建康に戻った侯景は勢力の衰えを悟り、王偉の勧めで簡文帝の廃位と豫章王蕭棟の擁立を強行する。太子大器をはじめ簡文帝の諸子・宗室二十余人が殺される。大器は「賊に殺されても構わない、逃げれば父を捨てることになる」と従容として死を受け入れる。
簡文帝の廃位と弑逆
- 豫章王蕭棟(昭明太子の孫)が擁立され改元するが、郭元建や溧陽公主の諫めで侯景は一時、簡文帝復位を検討する。しかし王偉の反対で沙汰止みとなり、王偉はさらに簡文帝の諸子を各地で殺させ、太子妃を郭元建へ与えようとするが断られる。
- 王偉は最終的に簡文帝の弑殺を主導し、酒に酔わせた上で土嚢で圧死させる。簡文帝は在位二年、四十九歳で崩じる。侯景は簡文帝に諡号を贈るが、体裁を整えたに過ぎない。
侯景の称帝と反撃の始まり
- 侯景は蕭棟にも禅譲を迫り自ら「漢帝」を称する。即位に際し不吉な兆し(兎の跳躍、白虹貫日)が現れる。王偉の建言で七廟を立てるが、侯景自身は先祖の名すら知らず、王偉が捏造した系譜で取り繕う。
- 反乱を起こしていた劉神茂を鎮圧するが、部下への残虐な処刑(銼碎、手足切断)が人心離反を招く。王僧辯・陳霸先は湓城で合流し、糧秣の支援を受けて勢力を拡大する。
建康攻略戦
- 湘東王繹の命を受けた王僧辯・陳霸先は白茅灣で誓いを立てて共同戦線を張り、南陵・鵲頭を落として東進する。侯子鑒は姑熟で守りを固めるが、僧辯の水戦の計略で大敗する。
- 追い詰められた侯景は淮口を塞ぐなど防備を固めるが、陳霸先の献策で石頭城方面から攻め込まれ、ついに総崩れとなる。侯景は王偉を叱責しつつ脱出し、幼い二子を捨てて東へ逃走する。
侯景の最期
- 建康入城後、王僧辯軍は略奪を働き混乱が生じる(この記述は後の僧辯の非業の死の伏線とされる)。旧臣の王克・元羅らは僧辯に皮肉を言われ恥じ入る。
- 逃走した侯景は配下の羊鵾に裏切られて刺殺される。遺体は建康でさらし者にされ、民衆が争って肉を食らう凄惨な結末となる。娘・溧陽公主も父兄の仇として侯景の肉を口にしたと記される。
- 王偉は捕らえられ、湘東王繹のもとへ送られる。繹は当初助命も検討するが、繹を侮辱する内容を含む檄文を見て激怒し、王偉を拷問の末に処刑する。
湘東王繹の即位
- 伝国璽の行方や北斉との外交(潘楽らの侵攻を陳霸先が撃退)を経て、王僧辯らの勧進により湘東王繹は江陵で即位する(承聖元年)。ただしその支配は江陵周辺のみに限られ、西蜀は武陵王蕭紀、嶺南は蕭勃が半ば独立した状態にあった。
評語
侯景の乱を成し遂げさせたのも滅ぼしたのも、実は王偉であった。簡文帝の弑殺や蕭大臨・大連らの粛清はすべて王偉の主導によるもので、侯景以上に悪辣であったとされる。侯景が得意の絶頂から一転して非業の死を遂げたのは、王偉の悪事が積み重なった結果というべきである。湘東王繹は当初王偉を宥そうとしたが、自らを侮辱する檄文を見て初めて厳罰に処した。私意による裁断は人心を得られず、即位後まもなく破綻を来す遠因となったと評される。