南北史演義第五十六回 邙山で戦い宇文泰が敗潰し、仏寺に幸し梁主蕭衍が捨身する (戰邙山宇文泰敗潰 幸佛寺梁主衍舍身)

乙弗皇后の死

  • 西魏の文帝寶炬は柔然(蠕蠕)の王女鬱久閭氏を皇后に立て、翌年、先の皇后乙弗氏を廃して子の武都王戊とともに秦州へ移した。
  • さらに翌年二月、柔然が大挙して南下し夏州に迫った。柔然の頭兵可汗は「一国に二后は許されぬ。乙弗氏が存命なら我が娘はいずれ廃されよう」と難詰したが、実は鬱久閭氏が乙弗氏の蓄髪(復位含み)を妬み、密かに柔然へ通報させたものだった。
  • 寶炬は「万を超える異民族の兵を女一人のために動かすわけにはいかぬ」と嘆息し、中常侍曹寵を秦州へ遣わし、乙弗氏に自尽を命じた。
  • 乙弗氏は皇太子への伝言を武都王戊に託し、涙のうちに落飾(剃髪)して仏前で服毒し、三十一歳で没した。麥積崖に龕を穿って葬られ、後に「寂陵」と呼ばれた。柔然軍はこれを受けて撤退した。

鬱久閭皇后の産死

  • 同年、鬱久閭氏は瑤華殿で懐妊中、犬の吠え声に怯え、いざ出産となっても難産で、幻覚に悩まされたまま男児を産み落とすと急死した。享年十六。
  • 宮中では乙弗氏の祟りと噂されたが、真偽は定かでない。寶炬は少陵原に葬らせた。

東魏の政情と高仲密の離反

  • 東魏は改元を重ね、麟趾閣で新制(麟趾格)を定め、侯景を吏部尚書兼尚書僕射・河南大行台に任じるなど体制を整えた。
  • 北豫州刺史高仲密が西魏へ寝返り、虎牢を手土産とした。背景には、仲密が先妻を離縁して妻の兄崔暹と不和になり、崔暹に人事で冷遇され続けたこと、さらに高澄(高歡の世子)が仲密の後妻李氏に横恋慕し、強引に迫って侮辱したことへの深い恨みがあった。仲密は北豫州に転出したまま西魏に内通し、高歡の混乱に乗じて公然と離反した。

邙山の戦い

  • 高歡は仲密離反の背後に崔暹ありと知り一時死罪を命じるも、高澄の取りなしで赦した。西魏は仲密を侍中司徒とし、宇文泰が諸軍を率いて虎牢奪還・河橋包囲に向かうと、高歡は十万の兵で自ら迎撃した。
  • 泰は河橋を焼こうとしたが東魏の斛律金・張亮が船で阻止し橋は無事だった。高歡は邙山に布陣して動かず、泰が夜襲を仕掛けたが、歡は事前に備えており、猛将彭樂の突撃で泰軍は大敗し、多数の宗室・重臣が捕らえられた。
  • 敗走する泰を彭樂が追い詰めたが、泰の説得(「私を殺さねば明日はお前の身が危うい、それより陣に戻り戦利品を得よ」)に応じ、彭樂は矛を収めて泰を逃した。
  • 帰陣した彭樂を高歡は激怒して斬りかけたが、諸将の取りなしで赦し、「今日は許すが忠義を尽くせ」と絹を与えて労った。

東魏の逆転と西魏の潰走

  • 翌日再戦し、宇文泰の中軍・若干惠の右軍が高歡軍を挟撃、歡は大敗し歩兵の大半を失い、わずか七人で東走した。都督尉興慶が身を挺して追撃を防ぎ、矢が尽きて戦死した。
  • 泰は賀拔勝に精鋭を与えて追撃させ、勝は歡に肉薄したが、東魏将段韶の援護で歡は辛くも逃れ、勝も落馬した。勝はさらに追ったが劉洪徽に阻まれ、「今日弓矢を持たぬのは天意か」と嘆いて引き返した。
  • 一方、東魏の耿令貴が反撃に転じ西魏軍を崩したが、独孤信・於謹らが後方から収拾し、西魏軍は全滅を免れた。
  • 泰は関中へ退き渭水で屯営、歡は陝城まで進んだが、諸将が「野に青草なく人馬疲弊」と諫めたため東進を諦め帰還、侯景らに虎牢奪還を命じた。

高仲密の妻、高澄の手に落ちる

  • 仲密は泰に従って関中入りし、虎牢に残した妻子を魏光に守らせたが、侯景が西魏の使者の書状を改竄して魏光を逃走させ、虎牢を陥落させて仲密の後妻趙氏を捕らえ鄴都へ送った。
  • 高澄はかねて執心していた趙氏を出迎え、体裁を整えたのち私邸に入れ、その日のうちに手籠めにして側室とした。

高澄の専権

  • 高歡は仲密の兄高乾の勲功と高敖曹の戦死を理由に一族の連座を免じ、末弟季式も赦された。
  • 高澄は大将軍・中書監となり文武の賞罰を一手に握った。侍中孫騰や重臣を辱め、司馬子如・咸陽王坦らは崔暹の弾劾で官爵を削られた。高歡は「息子の勢いを止められぬ」と諸貴に書を送るのみで、以後朝廷は高澄を憚った。崔暹・宋游道を要職に据え、弾劾は思うがままに行われ、東魏主善見は名ばかりの存在となった(のちの北齊簒奪の伏線)。

賀拔勝の死

  • 邙山の敗戦後、西魏は東進を控えるようになった。太師賀拔勝は兄允が高歡に殺され、多くの子を失った悲しみから病を得て没した。遺書には宇文泰への忠誠を訴える言葉が残されていた。泰は太宰を追贈し「貞獻」の諡を贈った。

梁主蕭衍の仏教への傾倒

  • 梁の武帝蕭衍は中大通七年に大同と改元、江南は平穏で北朝の争いに乗じることもなく、同泰寺を建立して自ら僧衣をまとい「捨身」の儀を行った。公卿らが巨額を出して身柄を「贖い」戻す茶番が繰り返された。
  • 南インドの僧菩提達摩が梁を訪れ、武帝の「功徳を積んだか」との問いに「功徳などない、真の悟りは形にはよらぬ」と応じ、経典講義の求めにも「仏法は心にあり口にはない」と答えて武帝を黙らせた。達摩はその後北へ渡り嵩山少林寺で面壁九年、弟子慧可に法を伝え、中国禅宗の初祖となった。
  • 武帝は俗僧慧約を師として受戒し、太子以下五万人が従ったが、政務は顧みられず、賢相周舍・徐勉の死後は侍中朱異・尚書令何敬容が実権を握り、特に朱異は長年賄賂を貪り奢侈を極めた。仏教への傾倒で士大夫も空談を好み武備を怠るようになった。

陶弘景と「山中宰相」

  • 丹陽の処士陶弘景は若くして学を好み、斉の高帝に仕えた後、官を辞し茅山に隠棲した。武帝とは即位後も親しく文通し、国事の大事はしばしば相談されたため「山中宰相」と称された。皇太子綱も彼を訪ねて教えを受けた。八十歳で没する際、口ずさんだ詩は当時、侯景の乱の予兆と評された。武帝は中散大夫を追贈し「貞白先生」と諡した。

大同年間の反乱

  • 大同八年、安城郡の劉敬躬が妖言で民を煽って蜂起し廬陵・豫章を陥れたが、湘東王繹の派遣した曹子郢・王僧辯によって鎮圧された。
  • 交州でも刺史蕭諮の苛政に李賁が反乱を起こし、援軍の孫冏・盧子雄は瘴気で退却を余儀なくされ、無実の罪で死を賜った。子雄の弟子略が復讐に挙兵するが、高要太守陳霸先がこれを討ち破った。
  • その後、李賁は「越帝」を自称して抵抗を続けたが、陳霸先が先鋒として各地を攻略し、最後は屈獠洞に追い詰められて討たれ、首級が建康に送られた。陳霸先の武名はこれより南方に轟いた。
  • 陳霸先は吳興の人で、風貌人並外れ、武帝に見出されて西江督護・高要太守・七郡軍事都督に任じられた。彼と王僧辯はのちの重要人物として、とりわけ霸先は後の陳朝の祖となる。

評語

(詩:栄枯は表裏一体で常ならず、仏に溺れ奸を容れれば亡国の兆し。乱世は武を尊ぶべきで、賊を平らげる者こそ強者と称えられる、との趣旨)

沙苑の敗戦で高歡は西進を諦め、邙山の敗戦で宇文泰は東進を諦め、東西分立の形勢はここに定まった。両者の智力は伯仲し勝敗も転変したが、高歡は好色で子の淫暴を許し、邙山の戦は高澄の所業が招いた面がある。その勝利も一時の僥倖に過ぎない。一方、梁の武帝は江南に安住しながら両魏の争いに乗じて政治を立て直すこともせず、釈教に迷い仏寺に身を捨て、朱異の専横を許して朝紀を乱した。かつて英邁だった武帝がなぜ異端に傾いたのか、沈約の死(斉和帝を害した負い目)を鑑み己の咎を悔いて仏教に懺悔を求めたのだとしても、いかにも愚かで誤った選択であった。