南北史演義第四十五回 宣光殿で母を省み争端を啓き、沃野鎮で兵を弄び禍乱を開く (宣光殿省母啟爭端 沃野鎮弄兵開禍亂)
元熙の挙兵と敗死
- 相州刺史・元熙(中山王元英の長子)は清河王元懌と親しく、不吉な夢を見た直後に懌誅殺の報を受けて激怒し、元乂・劉騰討伐の兵を挙げた。しかし長史・柳元章らに裏切られ捕らえられ、処刑された。弟の元略は逃亡して梁に亡命し中山王に封じられた。
孝明帝の胡太后訪問と宣光殿の政変
- 孝明帝は久しく母・胡太后への挨拶を欠いていたが、元乂の許可を得て訪問。宴席で右衛将軍・奚康生が舞を通じて元乂誅殺の意を胡太后に示唆した。
- 胡太后は帝を北宮に留めようとしたが、元乂側の光禄勲・賈粲に欺かれ帝は連れ去られ、逆に奚康生が捕らえられて処刑された(子の難当も後に殺害)。胡太后は再び北宮に幽閉された。
劉騰の専権と朝政腐敗
- 宦官劉騰は司空にまで昇り、賄賂による人事が横行。江陽王元継は司徒の座を崔光に譲るなど、権力構造の緩衝が図られた。
柔然(蠕蠕)情勢
- 魏の北辺では柔然の内紛が続いた。可汗の代替わり、巫女・地萬による皇子偽装事件とその粛清、後継争いの末にアナグイ(阿那瓌)が魏に亡命し、元乂への賄賂を経て魏の支援で帰国。もう一人の可汗婆羅門も涼州へ逃れ、最終的に魏によって両者は東西に分置されたが、婆羅門は再び反乱を企てて捕らえられ獄死した。アナグイは後に魏の使者を拘留し略奪を行うなど、次第に魏の制御を離れていった。
六鎮の乱の勃発
- 魏の北辺防衛のための六鎮(武川・撫冥・懐朔・懐荒・柔玄・御夷)は、孝文帝の南遷以降冷遇され不満が蓄積。長史・魏蘭根は「鎮を州に改め府戸を民に戻すべき」と献策したが、権貴に握りつぶされた。
- 懐荒鎮では於景が兵の要求を拒み殺害される事件が発生。さらに沃野鎮の破六韓抜陵が反乱を起こし鎮将を殺害して自立、武川・懐朔鎮を攻略した(賀抜度抜父子らが奮戦するも捕らえられた)。
各地の反乱の拡大
- 秦州では莫折大提・念生父子が自立して皇帝を僭称し、魏の元志を敗死させた。李崇も派遣されたが崔暹の独断専行により大敗し、雲中に退いて寇と対峙する事態となった。
- 魏はようやく鎮を州に改める詔を出したが手遅れで、六鎮の多くが破六韓抜陵に呼応した。この混乱の中、爾朱栄が反乱鎮圧で頭角を現し博陵郡公に封じられ、密かに勢力を蓄え始めた(のちの大乱の伏線)。
梁の北伐再開
- 梁の武帝は魏の混乱に乗じて中原経略を図り、裴邃を豫州刺史として合肥に配した。臨川王宏の子・蕭正徳が魏への亡命失敗後に帰順し、魏の内情を報告したことも出兵の契機となった。
- 裴邃は壽陽を攻めきれなかったものの、建陵・曲木など多くの城を攻略し、魏の徐州刺史・元法僧の降伏も引き出した。さらに新蔡・鄭城・汝穎方面でも戦果を上げ、魏の長孫稚の大軍を伏兵で撃破したが、勝利の絶頂で裴邃は陣中に病没した。
評語
- 評者は、元乂・劉騰を北魏の禍の元凶としつつ、それを助長したのは胡太后自身であるとする。奚康生は権力の内幕を知りながら誅殺に手を貸さず、後に舞で示唆する程度の中途半端な行動に出て自滅した点を批判。沃野の乱は六鎮全体、ひいては魏滅亡の導火線であり、内乱があってこそ外乱が生じるとして、胡太后の乱行とその後の元乂・劉騰の専横を一連の因果として結んでいる。