南北史演義第四十四回 淮堰を築き梁皇が計を失い、清河王を害し胡后が幽閉される (築淮堰梁皇失計 害清河胡後被幽)
胡太后と清河王元懌の密通
- 胡太后は美貌の清河王元懌に目をつけ、政務を任せつつ度々夜宴を開いて誘惑した。元懌は当初拒んでいたが、寝室に呼び出され既成事実とされ、以後密通が続いた。元懌は才望あり善政も行ったため悪評はしばらく覆い隠された。
壽陽の水害と淮堰計画の発端
- 天監十二年、魏の壽陽城が洪水に見舞われ、鎮帥・李崇は城と運命を共にする覚悟で持ちこたえた。治中・裴絢が離反を企てるも失敗し自殺した。
- この水害を機に、梁に降った王足が「淮水を堰き止めて壽陽を水没させる策」を献策。武帝はこれを採用し、大工事「淮堰」の築造を命じた。
淮堰築造の惨状
- 康絢の監督のもと二十万人規模の工事が始まったが、完成直後に暴風雨で決壊。蛟龍の祟りを恐れ鉄を沈めるなどの迷信的対策も効果なく、酷暑・厳寒の中で多数の死者を出しながら工事が続けられた。
淮堰・硤石をめぐる魏梁の攻防
- 梁は西硤石を占領し壽陽に迫ったが、魏の崔亮・李平・蕭宝寅らが反撃。硤石は陥落し趙祖悦は処刑された。魏軍の内部でも崔亮と李平が対立し、朝廷が調停する一幕もあった。
- 天監十五年、淮堰がついに完成(全長約九里)したが、水流の分散策や監督交代の混乱により堰は脆弱化していった。
淮堰の決壊と武帝の迷走
- 秋、淮水の増水で淮堰は轟音とともに決壊し、沿岸の兵民十余万人が押し流された。武帝は落胆しつつも仏教への傾倒を強め、宗廟の生贄を廃し麺で作った偽の犠牲を供えるなど奇妙な政策に走った。
益州方面の攻防
- 東益州で反乱が起き梁に呼応する動きがあったが、魏の傅豎眼が救援し葭萌関などを確保。梓潼太守夫人・劉氏が籠城戦で機知を発揮し表彰された。
臨川王蕭宏の放蕩と武帝の甘さ
- 臨川王蕭宏は酒色に溺れ、弟の不法な殺人を庇い、刺客事件にも関与を疑われたが、武帝は膨大な蓄財を発見しても叱責せず「生計上手」と笑って許し、宏を厚遇し続けた。次子豫章王蕭綜が宏を風刺する文を書いたほどであった。
魏の奢侈と張彝殺害事件
- 胡太后の奢侈にならい高陽王元雍・河間王元琛らが豪奢を競い合った。征西将軍張彝の子・仲瑀が武人の昇進制限を上奏したことに軍士が激怒し、張彝父子を殺害・焼き討ちする事件が発生。胡太后は首謀者数名を処刑したのみで武人優遇に転じた。この事件を見た函使・高歓(のちの北斉の祖)は朝廷の弱体化を見抜き、密かに勢力を蓄え始めた。
崔亮の停年格と朝政の腐敗
- 崔亮が年功序列の「停年格」を導入し、賢愚を問わぬ人事が定着。俸禄削減など財政難も進んだ。
劉騰・元乂の専権と清河王元懌の誅殺
- 宦官劉騰と元乂(爰)が結託し、清河王元懌が二人の不正を抑えていたことを恨み、元懌に謀反の濡れ衣を着せて誣告。幼い孝明帝を欺いて元懌を捕らえ処刑し、胡太后も北宮に幽閉して権力を奪った。
評語
- 評者は、梁の武帝が降将の献策のまま民の労苦を顧みず淮堰を築いた不仁を厳しく批判する。宗廟の犠牲を惜しみながら民の命を惜しまず、蕭宏の悪行を繰り返し許した点も併せて痛烈に非難する。胡太后の驕奢淫逸は元乂・劉騰がいなくとも遅かれ早かれ乱を招いたはずであり、清河王懌もまた不倫を拒み義に殉じることをしなかった点で同情の余地は乏しいと結ぶ。