南北史演義第四十一回 弟子が尸を輿し師が洛口で潰え、将帥が協力し鍾離で戦勝する (弟子輿尸潰師洛口 將帥協力戰勝鍾離)

北魏の権力構造と粛清

  • 魏の宣武帝(元恪)が即位すると、叔父の彭城王元勰は司徒となったが早々に辞職。咸陽王元禧・北海王元詳ら宗室が要職に就く一方、生母の兄・高肇や寵臣の茹皓・王仲興・趙修らが実権を握り、政治は乱れ始めた。
  • 咸陽王禧は権力を奪われたことを恨み帝位簒奪を企てたが露見して誅殺され、財産は高肇・趙修らに分配された。
  • 北海王元詳は権勢を強めたが、寵臣茹皓の妻の姉である安定王妃・高氏と密通するなど乱行が続いた。
  • 高肇は高句麗系の出自ゆえ元詳・茹皓らに軽んじられていたが、兄の娘が貴嬪として寵愛を受けたことから両者は対立。高肇は元詳・茹皓らに謀反の疑いありと讒言し、皇帝はこれを信じて茹皓ら四人を処刑、元詳を庶人に落として幽閉した。
  • 元詳の母・高太妃は息子の姦通を知り厳しく杖罰を加えたが、詳はまもなく変死(暗殺と目された)。以後、高肇がいよいよ専横を強め、宗室は次第に力を失っていった。

梁の北伐と韋叡の戦功

  • 梁は魏の混乱に乗じて大軍を発した。中山王元英・鎮西将軍邢巒らが迎撃に向かう中、梁の江州刺史王茂・張惠紹・昌義之らが河南・宿預・梁城などで緒戦の勝利を重ねた。
  • 豫州刺史・韋叡は小峴城を攻めるにあたり、逡巡する部将を叱咤して奇襲を敢行し落城させ、さらに合肥に進んで淝水を堰き止め水軍を通した。
  • 魏の楊霊胤が五万の兵で合肥救援に来ると、韋叡は増援を待たずに迎撃し撃退。堤を守る味方が動揺しても「堤存与存、堤亡与亡」と決死の構えを崩さず、ついに合肥を陥落させた。
  • 韋叡は病弱で常に輿に乗って指揮したが、兵と労苦を分かち合う統率で連戦連勝し、魏の楊霊胤も退却。以後、豫州の治所を合肥に移した。裴邃・桓和らも各地で魏の城を攻略した。

臨川王蕭宏の失態と梁軍の潰走

  • 一方で梁の別動隊は苦戦し、王茂・張惠紹らは魏の反撃で敗退。総帥の臨川王蕭宏は洛口に逗留したまま進撃をためらい、諸将(呂僧珍・柳惔・裴邃・馬仙琕・昌義之ら)の間で撤退か進軍かをめぐり激論となった。
  • 呂僧珍は内心宏の無能・臆病を見抜き撤退を主張、昌義之らは激怒したが、僧珍が場を収めた。魏では「蕭娘(宏を指す)と呂姥(僧珍を指す)は恐れぬが、合肥の韋虎(韋叡)だけは恐ろしい」という歌謡まで流行した。
  • やがて秋の暴風雨に乗じ、蕭宏はひそかに数騎で夜逃げし、全軍が総崩れとなって将士は四散した。宏は臨汝侯蕭淵猷の白石塁に逃げ込んで一夜を明かした。
  • 昌義之も梁城から撤退。半年に及んだこの北伐は、反覆常なき降将・陳伯之を得た程度の成果しかなく、五万近い将兵を失う大敗となった。

鍾離攻防と邢巒の諫言

  • 魏は勝ちに乗じて馬頭城を落とし、梁の武帝(蕭衍)は鍾離の守備を強化し昌義之に守らせた。魏の中山王元英は鍾離を包囲したが、邢巒は「南軍は野戦に弱いが城守に長ける。鍾離を力攻めするのは得策でない」と繰り返し諫言し、免職や自身の処分すら申し出て反対したが、皇帝は聞き入れず邢巒を召還し、代わりに蕭宝寅を派遣した。

曹景宗・韋叡の鍾離救援と大勝

  • 梁は右衛将軍曹景宗に二十万の兵を率いさせ鍾離救援に向かわせたが、景宗は詔に反して先行して暴風で溺死者を出すなど手間取った。
  • 翌年(天監六年)、魏の元英・楊大眼らは数十万の兵で鍾離を再び包囲し、邵陽洲に橋を架けて南北両岸から猛攻。守兵わずか三千の昌義之は死力を尽くして防戦し、城は落ちなかった。
  • 韋叡は豫州から急行し、一夜で堅固な塁を築いて魏軍を驚愕させた。楊大眼の騎兵突撃も弩の斉射で撃退し、大眼は負傷。
  • 曹景宗と韋叡は協調して魏軍の浮橋を火攻めで焼き払い、総攻撃をかけて魏軍を大崩壊させた。元英・楊大眼は敗走し、溺死者多数、梁軍は大勝して五万を捕虜とし、莫大な戦利品を得た。
  • 昌義之は「更生(生き返った)」と喜び、勝利の宴で韋叡は驕らぬ態度を示し、諸将から敬愛された。

評語

  • 評者は、梁の名将は韋叡・裴邃に及ぶ者なしとしながら、武帝がこの二人を主帥に用いず、無才無勇の臨川王宏を総帥に立てたことを厳しく批判する。宏の敗走は必然であり、韋叡・裴邃がいなければ全軍壊滅もあり得た。鍾離の戦いでも韋叡を曹景宗の指揮下に置いたのは危うい判断で、たまたま韋叡の威信により両者が協調できたに過ぎない。武帝の人物眼の浅さを指摘し、その凡庸を嘆いている。