南北史演義第四十二回 叛魏に通じたと誣られ宗が屈死し、復を図る梁将が功無く終わる (誣通叛魏宗屈死 圖規復梁將無功)

曹景宗の凱旋と論功行賞

  • 曹景宗は班師して都に戻り、祝宴で沈約に「競」「病」の韻を出され即座に詩を作って武帝に賞賛された。武帝は曹景宗を領軍将軍・竟陵公に、韋叡を右衛将軍・永昌侯に、昌義之を征虜将軍に、それぞれ加増した。景宗は翌年江州刺史に転じたが赴任途中で病死した。

高肇の専横と宗室の無力化

  • 鍾離で敗れた中山王元英と蕭宝寅は除名処分となり、楊大眼も左遷された。李崇が壽陽を鎮めて安定を保った。
  • 一方、宣武帝は高肇を重んじ高貴嬪に溺れ、宗室を疎んじて仏教に耽溺し、政務を顧みなくなった。彭城王元勰は太師に復したが実権はなく、広陵王元羽は員外郎の妻と密通して刺殺され、他の宗室諸王もみな凡庸で、政治はほぼ高氏の手中にあった。

於皇后の死と胡貴嬪の台頭

  • 於皇后は寵愛を失い急死し、高氏の毒殺が疑われたが誰も口にできなかった。その子・昌も間もなく夭折し、宣武帝は高貴嬪に慰められて於后母子を顧みなくなった。

元匡の抗議と屍諫

  • 度支尚書・元匡は高肇の専横に抗議して自ら棺を用意し屍諫を企てたが、高肇の讒言を受けた王顕の弾劾により逆に誣告罪とされ、光禄大夫に降格された。

京兆王元愉の反乱

  • 宣武帝の弟・京兆王元愉は寵妾李氏(もと楊氏、仮冒姓李)を溺愛したが、高肇の讒言により宣武帝から譴責・杖罰を受け冀州刺史に左遷された。
  • 憤慨した元愉は長史羊霊引ら諫止する者を殺し、司馬李遵の偽の密書を口実に「高肇弑逆」を掲げて自立、皇帝を僭称し寵妾を皇后に立てた。
  • 舅の潘僧固も巻き込まれ、これが彭城王元勰失脚の口実にされた。

彭城王元勰の冤死

  • 高肇は元勰が元愉と通謀したと誣告。魏主は当初保留したが、高肇が元暉・魏偃・高祖珍らに証言を作らせ、高貴嬪の讒言も加わって元勰誅殺を決意。
  • 宴に招いた元勰を別室で武士に囲ませ、鴆酒を強要し、さらに刺殺した。表向きは病死とされ、厚く弔われたが、世人は高肇の暴虐を非難した。

元愉の討伐と処刑

  • 李平の討伐軍が信都を包囲し、元愉は逃亡を図るも捕らえられた。護送の途中、高肇の密令により元愉は自殺を強いられ、寵妾も後に処刑(出産後まで猶予)された。李平は功により昇進したが、のち高肇の恨みを買い除名された。

淮南方面の戦い

  • 梁は魏の内乱に乗じ、義陽・懸瓠方面で一進一退の攻防を展開。魏の中山王元英・邢巒らが反撃し、白早生の乱を鎮圧、三関(平靖・武陽・武勝)も魏が奪還した。
  • 韋叡が安陸で防備を固めると魏の元英は攻撃を控えた。梁主は和睦を提案したが魏は応じなかった。
  • 雍州方面では梁が魏の元志の大軍を撃破。朐山では梁の馬仙琕が魏軍を降伏させたが、青冀二州刺史・張稷は功なく不満を募らせた。

張稷の非業の死

  • 張稷は武帝の嘲弄を受けて怏々とし、赴任地の統治を怠った末、鬱洲の反乱民・徐道角に襲われ、身を挺してかばった娘の楚瑗もろとも殺害され、首級を魏に送られた。魏軍来援の前に反乱は梁の康絢により鎮圧された。
  • 武帝は張稷を追罰しようとし、姻戚の沈約をなじったため、沈約は動揺して倒れ、病に伏した。

評語

  • 評者は、高肇と高貴嬪という「女子小人」が表裏で権力を握り、於后母子・皇子昌を害し、京兆王愉・彭城王勰を陥れた経緯を指摘する。愉の挙兵は私憤による自業自得だが、勰は名望ある賢王でありながら冤罪で死に、高氏の害は甚だしいとする。魏の政治が乱れ降伏者が相次ぐ中、梁も韋叡のような名将を重用できず戦果を上げられなかったとし、朐山・鬱洲の乱鎮定を辛うじての幸事と評す。