南北史演義第四十回 蕭宝夤が師を乞い虜闕に伏し、魏の邢巒が将を遣り梁州を奪う (蕭寶夤乞師伏虜闕 魏邢巒遣將奪梁州)
斉の後始末と梁の内政整備
- 斉和帝弑逆に殉じた忠臣顔見遠のことを聞き、梁主蕭衍は感嘆する。喑唖のため時流に巻き込まれなかった蕭寶義を巴陵王とし斉の祭祀を継がせ、宣德太后は外宮に隠棲し天寿を全うした。
- 衍は兄弟を次々と王に封じ(宏を臨川王、秀を安成王、偉を建安王、恢を鄱陽王、憺を始興王)、王茂・王亮・王瑩・沈約・范雲らに要職を与え、子の統を皇太子に立てる。謗木・肺石を設けて民の意見や功臣の訴えを聞く仕組みを作り、質素倹約を心がけ、地方官の登用も実績本位とするなど、統治の刷新に努めた。
孫文明の乱
- 東昏侯(寶卷)の残党である孫文明が乱を起こし、闇夜に乗じて神虎門を破り総章観に侵入、衛尉張弘策を殺害し尚書省・雲龍門を焼く。
- 衍は自ら戎服で殿前に出て動じず、「賊は夜だから多くない、暁を告げる鼓を打たせよ」と機転を利かせ、偽の五更鼓で賊を油断させて散らせたところを王茂の軍が急襲、孫文明以下を一網打尽にした。
陳伯之の叛乱と北魏亡命
- 江州刺史陳伯之は文盲であったため幕僚に政務を任せていたが、別駕鄧繕・参軍褚緭らが不正を働き、梁主が更迭を図ると、繕らは偽造した建安王寶夤の書状を用いて伯之を反乱に誘った。
- 伯之は豫章太守鄭伯倫の防備と王茂の討伐軍に挟撃され、親族を連れて北魏へ亡命した。
蕭寶夤・陳伯之の北魏乞師
- 北魏の任城王元澄は斉建安王蕭寶夤を厚遇し、洛陽への使者を手配。寶夤は喪服のまま復讐を誓い、陳伯之も共に出兵を請う。
- 魏主元恪は寶夤の悲痛な訴えに動かされ出兵を許可。寶夤を鎮東将軍・斉王に、陳伯之を平南将軍・江州刺史に任じ、それぞれ兵を与えて南征の準備をさせた(かつて元英・源懐が南征を上奏した際、魏主は好機を逃していた経緯も語られる)。
淮南・義陽方面の攻防
- 任城王元澄は諸将を分遣して東関・大峴・淮陵・九山を次々と攻略。梁の徐州司馬明素・長史潘法鄰らは敗死し、魏軍は阜陵に迫るが、南梁太守馮道根が事前の備えと巧みな心理戦(少数の精鋭出撃と泰然自若の態度)で魏軍を撤退させ、豫州刺史に抜擢された。
- その後、任城王が鍾離を攻める隙に梁将姜慶真が壽陽を急襲するも、任城王太妃孟氏が自ら陣頭で守備を固めて撃退。梁の援軍張惠紹らは邵陽で魏将劉思祖に大敗し捕虜となった(思祖は恩賞を巡る不公平から士気を落とす一幕もあった)。
- 長雨による増水で任城王は壽陽へ撤退、追撃を受け多くの兵を失う(降格処分)。両軍の捕虜は交換で帰還した。
義陽の陥落
- 魏の鎮南将軍元英は義陽を包囲するが、司州刺史蔡道恭の奮戦で百日以上持ちこたえ、魏軍はむしろ撤退を考え始める。しかし道恭が病没し、後を継いだ蔡霊恩が士気を保てず、援軍の梁将も敗退(老将傅永が負傷をものともせず奮戦した逸話も語られる)、最終的に霊恩は城を開いて魏に降伏。平靖・武陽・黄峴の三関も梁軍が放棄し、魏は元英を中山王に封じて将士に恩賞を与えた。
- 梁廷は敗戦の責任を問う声もあったが、功臣曹景宗は不問とされ、鄭紹叔を新設の司州刺史として関南の防衛を固め直した。
漢中・仇池の争奪
- 梁の漢中太守夏侯道遷が漢中を挙げて魏に降り、魏の邢巒が梁州を席巻。益州刺史鄧元起は動かず、巴西太守龐景民も郡民に殺されて魏に帰属するなど益州側は総崩れとなる。
- 仇池では魏に臣従していた楊紹先の叔父・集起と集義が、漢中陥落と梁の誘いを受けて紹先を皇帝に擁立し反旗を翻すが、邢巒配下の王足に撃退される。王足はさらに梁将孔陵を破って劍閣を突破し、梁州十四郡をほぼ制圧した。
- 梁は鄧元起に代えて西昌侯蕭淵藻を益州刺史とするが、淵藻は元起への私怨から酒宴に乗じて元起を謀殺、随員も皆殺しにする暴挙に出る。梁主は皇族への配慮から淵藻を軽い処分(冠軍将軍への降格)にとどめた。淵藻は後に益州の反乱(焦僧護の乱)を胆力で鎮圧している。
王足の離反と邢巒の苦戦
- 魏の王足は益州侵攻を主張するが魏主に牽制され、羊祉に交代させられたことに不満を抱き、魏の朝政が寵臣に牛耳られている状況も相まって梁へ寝返った。
- 邢巒配下の李仲遷は酒色に溺れて政務を怠り、巴西城が反乱で奪還され梁の手に落ちる失態を招く。
- 一方、邢巒は傅豎眼を派遣して仇池の楊集義らを撃破し、楊紹先を捕らえて洛陽に送る。仇池(東晋以来の氐族政権)はここに滅び、魏はこれを武興鎮、のち東益州と改めた(天監五年・魏正始三年の出来事)。
梁の北伐発動
- 梁主衍は益州の失地を挽回すべく、魏の内紛(咸陽王禧・北海王詳の誅殺、高肇・茹皓ら寵臣の専横)に付け入る好機と判断し、臨川王蕭宏を都督北討諸軍事に任じ北伐を発動する。ただし蕭宏は皇族の威光のみで実力に乏しく、その人選への懸念が語られる。(詩:兵は凶器であり戦は危うい、凡庸な者を将に用いる梁の初期の乱れを憂う)
評語
- 蕭寶夤が北魏へ亡命し涙ながらに援軍を乞うた姿は、一見忠孝の士のようだが、後に魏に叛いて自ら帝を称したことを思えば、忠孝を装って一時の富貴を狙ったに過ぎない。終日伏して哭き、拝命の前夜に慟哭し続けた振る舞いも、すべて演技であったと見るべきである。
- 寶夤の乞師をきっかけに、任城王元澄・元英が司州を奪い、邢巒配下の王足が巴西から涪城まで攻め込むなど、梁は東西で応戦に追われることとなった。蕭衍の簒奪弑逆は惜しむに値しないが、罪のない民衆が戦火に苦しんだのは、寶夤が私怨のために事を起こした結果に他ならない。
- 魏主の逡巡を咎める論者は、裏返しに寶夤を称えがちだが、それは浅見である。人物評価はその生涯全体の行いによってなすべきであり、一時の言動や見かけだけで判断してはならない。