南北史演義第三十九回 色を遠ざけよと諫めた王茂が嬌娃を得、蕭衍が大宝を窃み弑逆を行う (諫遠色王茂得嬌娃 竊大寶蕭衍行弒逆)
東昏侯廃立の詔と論功
- 蕭衍は宣德太后の名を借りて、寶卷の暴虐(忠臣殺戮、民の強制退去、奢侈の造営、市井の真似事、居喪中の淫楽など)を糾弾する詔を発し、漢の海昏侯(昌邑王賀)の故事に倣って寶卷を東昏侯に降封、褚皇后・太子誦を庶人としたことを布告する。
- 太后は名目のみの存在で実権はなく、衍が自ら「大司馬・録尚書事・驃騎大将軍・揚州刺史・建安郡公」に進み、承制で政務を代行。王亮を長史に、晋安王寶義を太尉、建安王寶夤を鄱陽王に改封する。
- 茹法珍・梅蟲兒・王寶孫・王咺之ら41人を誅殺。潘貴妃は衍が助命を考えたが、王茂の「斉を滅ぼした元凶を宮中に置けば非難を招く」との諫言により縊死させられる。宮女2千人を放出して将士に分け与え、佘妃・呉淑媛は衍自身が召し入れ、始安王遙光の旧妾阮氏も采女とした。
馬仙璝・袁昂の節義
- 各地は次々と帰順するが、豫州刺史馬仙璝と呉興太守袁昂は拒絶。馬仙璝は招降の使者を斬り、袁昂も婉曲に拒む書を返す。
- 衍は武力によらず李元履に撫諭させる方針を取り、袁昂は防備を解いて捕らわれるに任せ、馬仙璝も部下の助命のため自ら降を受け入れる形で捕縛される。建康に送られた両者を衍は自ら縄を解いて厚遇し、「天下に二人の義士を示す」と語った。
沈約・范雲の禅譲工作
- 衍は旧知の范雲を諮議、沈約を司馬、任昉を記室に起用し、宣德太后を奉じて中興二年正月に称制。
- 沈約は「斉の命運は尽きた、明公が帝位を継ぐべき」と強く進言し、逡巡する衍を説き伏せる。范雲も同様に賛意を示すが、翌朝の面会で沈約に出し抜かれ、既に加九錫・封梁王・禅譲詔書の草案が用意されていたことを知り驚く(沈約は范雲を左僕射にする含みを示して宥める)。
- 衍は相国・総百揆・揚州牧・梁公(のち梁王)に進み、沈約は吏部尚書兼右僕射、范雲は侍中に任じられる。
王茂の諫言と佘妃
- 禅譲の手続きが停滞したのは、衍が佘妃に溺れて政務を怠っていたためだった。范雲は王茂と共に衍を諫め、「漢の高祖は関中に入っても財貨・婦女に手を出さず大業を成した」と説く。
- 衍は渋々佘妃を手放すことを承知し、これまで恩賞に漏れていた王茂への褒賞として佘妃を与える。佘妃は涙ながらに訴えるが衍は取り合わず、そのまま王茂の私邸に送られた。
- なお蕭衍の正妻郗氏は文武に優れた女性で、生前は嫉妬深く妾の丁氏を虐待していたが、郗氏没後に丁氏が産んだ男児(統、後の昭明太子)は当時雍州に留め置かれていたという経緯も語られる。
明帝諸子の粛清と受禅への道
- 衍は湘東王寶暱に謀反の嫌疑をかけて誅殺し、弟の寶覧・寶宏も連座。幼い邵陵王寶攸・晋熙王寶嵩・桂陽王寶貞も自尽させられる。廬陵王寶玄は憂死し、鄱陽王寶夤は脱出して北魏に投降。明帝の子で残るは晋安王寶義と江陵の南康王寶融のみとなった。
- 衍は寶融に東帰・入都を促す上表をする一方、各地から祥瑞(景星・甘露・鳳凰など)の報告が次々と届けられ、禅譲の機運が演出される。沈約起草の禅譲詔書が発せられ、寶融は姑熟に至り、宣德太后の璽書とともに正式な受禅の手続きが進められる。
梁の建国
- 衍は形式上、上表して禅譲を辞退する体裁を取るが、百官の重ねての勧進と、太史令蔣道秀による讖緯の提出を経て、丙寅日に南郊で即位。国号を梁、年号を天監元年と改め大赦を行う。
- 寶融は巴陵王に降格され姑熟に留め置かれ、宣德太后は斉文帝妃に、皇后王氏は巴陵王妃とされる。衍は父母兄弟を追尊・追封し、夏侯詳らに公侯の位を与えた。
寶融の死
- 沈約の進言(「虚名を慕って実害を招くべきでない」)を受け、衍は寶融を毒殺すべく生金を送るが、寶融は「毒など要らぬ、酒で十分」と応じ、酒に酔わされたところを殺害された。享年15。
- 衍は「暴亡」と偽って哀悼の意を示し、寶融を斉和帝と追尊した。斉は太祖蕭道成の簒宋から和帝の滅亡まで、7代23年で終わった。斉末にただ一人、食を絶って殉節した忠臣がいたことが語られる。(詩:新朝に仕えて栄達を競う者ばかりの中、節を全うした孤臣を称える)
評語
- 沈約と范雲は共に禅譲の陰謀を助けたが、沈約は特に狡猾で、范雲を出し抜いて先に動き、栄利のみを追い小さな信義を顧みなかった。范雲は佘妃を出すよう諫めた一事は評価できるが、沈約にはそうした美点が見られない。
- 寶暱らの粛清も沈約の関与が疑われるが史書に詳しい記述はない。衍が寶融の助命を望んでいたのに対し、沈約は殺害を唆したのであり、それは衍の禍根を絶つと同時に自らの寵を固めるためでもあった。范雲がなし得なかったことを沈約は平然と行っており、衍の簒逆は実質的に沈約一人が主導したと言える。
- もし衍が范雲・王茂の諫言に従って佘妃を手放したように、良い輔佐を得ていれば、唐の高祖や宋の太祖のような名君にもなり得たはずである。簒奪はやむを得なかったとしても、弑逆までは避けられたはずであり、その経緯を思えば沈約への非難は免れない。