南北史演義第032回 仁義を仮り義兵が江淮に達し、后を易え儲を廃し釁が河洛に伝わる (假仁襲義兵達江淮 易後廢儲釁傳河洛)

魏主宏の南征発動

  • 魏主拓跋宏(元宏)は洛陽遷都後、南斉の廃立と蕭鸞の即位を聞いて出兵の口実とし、雍州刺史曹虎の投降の噂も受けて四路(襄陽・義陽・鐘離・南鄭)から進軍を命じた。
  • 尚書僕射盧淵や相州刺史高閭は曹虎の誠意を疑い出兵に慎重論を唱えたが、魏主は聞き入れず、任城王澄の反対も押し切って自ら親征を決意。北海王詳・李衝に洛陽の留守を託し、南下した。

各戦線の戦況

  • 曹虎はついに会兵に応じず、南斉は王廣之・蕭坦之・沈文季らを派遣して迎撃。鐘離では蕭惠休が魏将拓跋衍を撃退、義陽では蕭誕が籠城し周辺の民が魏に降った。
  • 魏主は壽陽に至り、雨中で兵士を労わるなど士気を鼓舞。豫州刺史蕭遙昌の使者崔慶遠と問答し、廃立の正当性や周公・霍光の故事を引いて弁論、崔慶遠の弁舌に魏主も言葉を失い、和議めいたやり取りをして帰した。

義陽の攻防と蕭衍の活躍

  • 崔慧景・裴叔業が鐘離の蕭惠休を、王廣之・蕭衍・蕭誄が義陽の蕭誕を援護。蕭衍は自ら先鋒を志願し、蕭誄と夜襲で賢首山に陣し、旗鼓で魏軍を威嚇。翌朝城内の王伯瑜の出撃と挟撃で魏軍(劉昶・王肅)を撃破し数千を捕虜とした。

鐘離での攻防と魏主の撤退

  • 魏主は司徒馮誕の病没を悼みつつ鐘離を攻めたが、蕭惠休・崔慧景・裴叔業らの防戦で苦戦し、邵陽洲に築いた三城も裴叔業に破られた。高閭・陸叡の進言もあり、魏主は淮水を渡って北帰することとした。
  • 渡河中に斉の水軍に阻まれたが、軍弁奚康生の活躍(火計で斉艦を焼く)で突破。殿軍の楊播は淮水で孤立しながらも奮戦し、水が退いたところで単騎で渡河を果たした。
  • 邵陽洲に残った魏兵一万は崔慧景に和を求め、副将張欣泰の進言で北帰を許された(崔慧景・張欣泰は後に蕭坦之に弾劾され恩賞を得られなかった)。

襄陽・南鄭方面の戦い

  • 襄陽方面の薛真度は房伯玉に敗退。南鄭方面では劉藻・拓跋英が合流して漢中の梁州刺史蕭懿の五柵を攻め、拓跋英は梁季群を捕らえ諸柵を突破、南鄭を包囲した。
  • 蕭懿は参軍庾域の計(空倉を粟米満載と偽装)で士気を保ち、仇池の氐族を扇動して魏軍の糧道を断たせた。魏主の召還命令で拓跋英は撤退、途中の叛氐との戦いで負傷しつつも仇池に帰還した。
  • 城陽王拓跋鸞の赭陽攻めも失敗し、盧淵も勝手に洛陽へ引き上げた。

魏主の礼制改革

  • 魏主は魯城で孔子を祀り、孔氏・顔氏の子孫を登用、国子太学・四門小学を設け老臣を厚遇するなど、中華の礼制導入に力を注いだ。
  • 翌年、鮮卑の拓跋姓を廃し元氏に改姓、諸氏族にも改姓を命じ、南朝風の門閥重視の人事制度を導入。李衝・李彪が才能本位の登用を進言したが、魏主は世家の徳を理由に退けた。

皇后廃立の悲劇

  • 馮太師の二女(姉が皇后、妹が昭儀)のうち、魏主は容色に優れた妹の馮昭儀に溺れ、皇后を疎んじるようになった。馮昭儀は皇后の悪口を吹き込み、ついに皇后は廃されて瑤光寺で尼となった。

太子恂の廃死

  • 皇太子恂(故妃林氏の子)は肥満と暑さを嫌い、洛陽居住を厭って北方逗留を長引かせ、督促に不満を募らせた。中庶子高道悅の諫言に激怒し、これを斬殺。
  • 魏主は激怒し恂を庶人に廃して幽閉。恒州刺史穆泰・定州刺史陸叡の謀反が発覚し誅殺される中、中尉李彪の密告(恂が謀反を企てているとの噂)により、魏主は恂に鴆酒を賜い死なせた(十五歳)。
  • 次子恪が新太子に立てられたが、その生母高氏は馮昭儀の嫉妬により毒殺され、恪は馮昭儀の養子として育てられた(昭儀は文明太后の再来を狙っていた)。
  • 東陽王拓跋丕は旧服を守り改姓に従わなかったため降格され、子の隆・弟の超も穆泰の謀反に連座して誅殺、丕自身も庶人に落とされた。
  • 魏主はほどなく馮昭儀を皇后に立てた。

(詩:無実の皇后を廃し、我が子を誅殺した孝文帝の非情を嘆く内容)

  • 魏主は南朝の相次ぐ大臣殺害に乗じ、さらに南陽への進攻を企てる。

評語

  • 本回は主に魏の事績を記し、斉の事は付随的に触れたにすぎない。魏主の南征は大義名分を掲げながら崔慶遠の弁舌一つで気勢を失っており、志の定まらなさが表れている。蕭鸞の弑逆を論難しながら、蕭衍の勝利や馮誕の死を理由にあっさり撤兵し使者を送るのみで済ませたのは、言行の一致しない意気だけの遠征であった。
  • 皇后には落ち度がないのに寵妃の讒言で廃され、太子恂も本来教え導けたはずが廃され、ついに死を賜った。李彪の密告や次子恪が馮昭儀に養われて太子となった経緯を見れば、背後の讒言操作は明らかである。魏主がこれに惑わされ夫婦の道・父子の恩を損なったことは、家斉わずして国治まらずの典型であり、とても令主とは呼べない。