南北史演義第031回 宣城王が諸王を殺し毒を肆にし、宗祚を簒い海陵王が冤に沈む (殺諸王宣城肆毒 篡宗祚海陵沉冤)
昭文の即位と蕭鸞の布陣
- 新安王蕭昭文が帝位を継ぎ、鄱陽王蕭鏘を司徒、隨王蕭子隆を中軍大將軍、蕭諶を中領軍、王敬則を太尉、陳顯達を司空、王晏を尚書令、王玄邈を中護軍とするなど諸臣に官職を与えた。
- 蕭鸞は甥の蕭遙光・蕭遙欣・蕭遙昌を要職(南郡太守・兗州刺史・郢州刺史)に配し、内外に党与を築いて簒奪の布石とした。
鄱陽王・隨王の粛清
- 鏘と子隆は高帝・武帝の遺児の中でも声望が高く、蕭鸞は表向き忠誠を装いながら内心これを忌んだ。
- 制局監の謝粲は鏘・子隆に、先手を打って蕭鸞を捕らえ天子を奉じるよう勧めたが、鏘は東府の兵力を恐れて躊躇し、母の陸太妃にも止められて決断できなかった。
- 典簽がこの動きを蕭鸞に密告し、蕭鸞は精兵二千を送って鏘の邸を包囲、鏘・謝粲・馬隊長劉巨らを殺害した。
- 続いて子隆の邸も東府兵に襲われ、子隆と一族は皆殺された。鏘は二十六歳、子隆は二十一歳であった。
晉安王子懋の挙兵と敗死
- 江州刺史の晉安王子懋(子隆の兄)は二王の死を知り兵を挙げようとし、母の阮氏を都から迎えようとしたが、阮氏側近の於瑤之がこれを蕭鸞に密告した。
- 蕭鸞は子懋謀反として王玄邈に討伐を命じ、裴叔業と於瑤之に尋陽を襲わせた。
- 裴叔業は偽って朝命を装い湓城の守将樂賁を欺いて城を奪取。さらに於瑤之・於琳之兄弟が尋陽城内で子懋に降伏と助命を勧め、賄賂を持たせて叔業の陣へ送った。
- 於琳之は裏切って叔業の兵を城内に導き入れ、部将徐玄慶が子懋を斬殺した(享年二十三)。
- 王玄邈が入城して残党を捜索。忠臣董僧慧は子懋の遺骸を弔った後、幼い遺児昭基(九歳)の獄中からの手紙を見て慟哭し血を吐いて死んだ。
- 陸超之も逃げずに殺され、その首を持ち帰った門生も棺の下敷きになって落命した。
- 王玄邈は蕭鸞の命により昭基らを都へ護送した(生存の見込みなし)。
南兗州・荊州・上流諸州の王殺害
- 王廣之が南兗州刺史の安陸王子敬を襲撃し、部将陳伯之が斬殺。
- 蕭鸞は徐玄慶に荊州刺史の臨海王昭秀の殺害を命じたが、荊州長史何昌寓が筋を通して抗議し、昭秀は正式な詔により無事都へ戻った。
- 吳興太守孔琇之は晉熙王銶の殺害命令を拒み自ら命を絶った。
- 蕭鸞は裴叔業に上流諸王の粛清を命令。湘州刺史南平王銳は防閣将軍周伯玉の抗戦の進言を退けて投獄させたため、叔業に偽詔で殺され、周伯玉も殺された。
- 郢州の晉熙王銶(十六歳)は服毒死、南豫州の宜都王鏗(十八歳)も叔業に絞殺された。
蕭鸞の宣城王進爵と簒奪への布石
- 上流諸王を殲滅した叔業は東還して復命。蕭鸞は太傅・揚州牧となり宣城王に進爵、名士を招いて簒奪の計を進めた。
- 侍中謝朏は加担を拒み吳興太守として外任を願い出、弟の吏部尚書謝瀹には酒を送り「政事に関わるな」と諭した。
- 諮議参軍江悰は蕭鸞の両肩の赤い痣を「日月の相」として喧伝するよう勧め、晉壽太守王洪范に見せると、洪范は喜んで喧伝を約束した(蕭鸞は驚いた振りをした)。
- 桂陽王鑠(高帝八子)は蕭鸞の態度から自らの危険を悟りながら逃れられず、その夜東府兵に殺された(二十四歳)。
さらに続く諸王殺害
- 江夏王鋒は蕭鸞を書面で厳しく非難したため深く恨まれ、太廟参拝の際に伏兵に襲われた。素手で数人を打ち倒したが多勢に無勢で数十の傷を受け憤死(二十歳)。
- 建安王子真(十九歳)は典簽何令孫に牀下で捕らえられ、命乞いも空しく斬られた。
- 巴陵王子倫(十六歳)は中書舍人茹法亮の毒酒を従容として受け、恨み言を述べつつ服毒死した。法亮も涙したという。
- 衡陽王鈞(二十二歳)も殺害され、高帝・武帝の男子はほぼ根絶やしにされた。
昭文の廃位と蕭鸞の即位
- 蕭鸞は殺戮を重ねて権力を固め、幼帝昭文は食事すら蕭鸞の許可がなければ供されぬ有様であった。
- 延興元年十月末、太后の名で昭文を海陵王に降し、宣城王蕭鸞を帝位に即けよとの勅令が発せられた(勅文は宗室の危機を治め英傑の輔弼を得るためと大義名分を掲げる)。
- 昭文は退位して私第に移り、皇后王氏も海陵王妃に降格。蕭鸞は三度辞退の形を取った後、建武と改元して即位、大赦を行った。
- 王敬則・陳顯達・王晏・徐孝嗣・蕭諶・王玄邈・王廣之・王洪范ら功臣に加官し、揚州刺史には長子寶義に代えて甥の始安王遙光を、荊州に遙欣、豫州に遙昌を配して要地を固めた。
新帝の人事と忠臣の抵抗
- 度支尚書虞悰は仕官を拒み病と称して慟哭し、王晏の説得にも応じなかった。徐孝嗣が「古の遺直である」と弁護し、弾劾は見送られた。
- 蕭鸞は実父始安王道生を景皇帝、実母江氏を景皇后に追尊し、兄鳳・弟緬らに追贈・封爵を与えた。
- 亡き妃劉氏を皇后に追諡し、その子寶卷を皇太子に、庶出の寶義を晉安王とするなど諸子に王爵を与えた。
海陵王昭文の暗殺
- 蕭鸞は廢主昭文を表向き厚遇したが、十一月に「病」と称して御医に薬を進ませ、実際にはこれで毒殺した。
- 表向きは丁重な葬儀(袞冕での殮、轀輬車での葬送、諡は恭)を行ったが、十五歳の廃帝は非業の死を遂げた。
(詩:鬱林王に続き海陵王も半年で命を落とし、罪もない幼帝が簒奪の犠牲になったことを哀れむ内容)
評語
- 高帝・武帝・文惠太子の男子は少なくなかったが、蕭鸞の残虐な簒奪に誰も抗えなかった。鄱陽王鏘・隨王子隆・晉安王子懋は先手を打とうとしながら、いずれも「疑」の一字に決断を誤り、蕭鸞に討たれた。当断不断はまさに乱を招く古語の通りである。
- 諸王が内外に居ながら一人の蕭鸞すら抑えられなかったのは、劉表の子のような凡庸さゆえであろう。昭文の廃亡を招いたのは実は先帝昭業の悪政に起因し、蕭鸞の簒奪も昭業が招いたものである。
- しかし鬱林王・東昏侯と並べて見れば因果は応報であり、蕭鸞が諸王を殺し尽くしたその毒念と愚劣さには、この回を読んで嘆かぬ者はいないだろう。