南北史演義第028回 孽を造り孽児が自尽し、愚孝を全うし愚主が喪を終える (造孽緣孽兒自盡 全愚孝愚主終喪)

巴東王子響の乱

  • 巴東王子響(斉主賾の第四子、豫章王嶷の養子から実子に復帰)は荊州都督として少年ながら武勇に優れたが、私兵を蓄え蛮族と武器を密売するなど不穏な振る舞いがあり、長史劉寅らが密告すると、逆にこれを皆殺しにしてしまった。
  • 斉主賾は将軍戴僧靜に討伐を命じようとしたが、僧靜は軽率な出兵を諫めた。代わって衛尉胡諧之・尹略・茹法亮らが江陵へ派遣され、投降を勧告した。
  • 子響は帰順を望み使者を送ったが尹略に拒絶され、業を煮やして挙兵、燕尾洲で尹略軍と交戦、これを撃破し尹略を討ち取った。胡諧之・茹法亮は敗走した。
  • 丹陽尹蕭順之(道成の族弟、梁の武帝の父)が改めて討伐に赴くと、その威名に叛兵は散り散りとなった。子響は小船で建康へ向かおうとしたが、太子長懋の意を受けた順之に阻まれ、自ら詫び状をしたためた末に自縊した(享年二十三)。
  • 順之は子響の上奏文の語を改めて奏上し、子響は庶人に落とされ「蛸」の姓を与えられた。劉寅らは死後に贈官された。

斉主賾の猜疑と兄弟の情

  • 斉主賾は猿の子が墜死した母猿の哀鳴に心動かされ、子響の死を悔いた。高帝道成の遺戒「骨肉相残するな」を思い出し、涙した。
  • 長沙王晃の違法な私兵蓄積を豫章王嶷が涙ながらに執り成し、事なきを得た逸話や、武陵王曅の失言を嶷がとりなした逸話が語られ、賾の猜疑深さと嶷の温和な人柄が対比的に描かれる。
  • 豫章王嶷の上疏により子響はようやく葬儀を許され、魚復侯に追封された。

豫章王嶷の死

  • 嶷は温厚篤実な人柄で、常に父兄の怒りを和らげてきた。永明五年に大司馬に進み、七年に致仕を願い出た。斉主は嶷邸をしばしば訪れて厚遇し、宴席で「陛下には百年の寿を」と祝う逸話もあった。
  • 永明十年、四十九歳で発病し、子廉・子恪ら子らに遺訓(篤睦を旨とし倹約に努めよ)を残し、遺啓を斉主に奉った上で薨去した。斉主は深く悲しみ、九旒鸞輅など破格の礼を以て葬らせ、諡は文献。
  • 西昌侯蕭鸞(道成の兄の子)が尚書左僕射に抜擢され、次第に権勢を増していくことが示唆される。

魏の馮太后の死と孝文帝の孝行

  • 魏主宏(孝文帝)は生母李夫人を知らず馮太后に育てられ、太后を実の祖母のように敬愛していた。太后は寵臣王叡・李衝や宦官らを重用し、内では乱行を極めたが、賞罰は厳正で人望を保った。
  • 高允は五朝に仕えた老臣として律令の改定に尽力し、九十八歳で没した。
  • 太和十四年、馮太后が四十九歳で崩じると、魏主宏は極度の哀毀を示し、群臣の諫めをよそに長く喪に服そうとした。李彪らの諫言でようやく服喪期間の議論が収まったが、宏は「祖父母の恩を忘れられぬ」と号泣した。
  • 斉から弔問使裴昭明・謝竣が赴き、魏からも李彪が答礼に赴くなど、南北の使節往来が語られる。魏主宏は復古を志し、明堂・太廟の造営や年忌の祭祀に力を入れた。
  • 馮太后は生前、宏の聡明さを恐れて幽閉・絶食させ廃立を図ったこともあったが、宏は太和十七年の服喪明けに至って初めて実母が李夫人であったことを知り、思皇后と追尊。馮太后の姪二人(馮熙の娘)を後宮に迎えたことが後の宮廷の乱の伏線となる。

(詩:父を忘れ仇に媚びる孝行の是非を問う一首)

評語

  • 子響は本来反逆の意図はなく、任性で人を殺めたことが誤りであった。戴僧靜が「天子の子が人を殺しても大罪ではない」と言ったのは謬りである。茹法亮・尹略らの強硬な対応が事態を悪化させた。斉主賾が先に子響を放縦にし後に厳しく処断したのは君臣・父子の道に悖る。
  • 豫章王嶷は仁恕廉謹で名望が高く、史家が周公に比するのは過褒だが、それでも凡百の中では傑出した人物であり、後世が崇拝するに値する。
  • 魏の馮太后は上皇を弑逆した仇であり、宏はその仇に対して過剰な孝を尽くした。忠孝の道理からすれば矛盾しており、これは「蛮夷の孝」というべきものである。