南北史演義第027回 帝籙を膺け父子相継ぎ、名賢を礼し昆弟が同心する (膺帝籙父子相繼 禮名賢昆季同心)

垣崇祖、肥水の計で魏軍を破る

  • 豫州刺史垣崇祖は魏の大軍来襲を知り、壽陽城西北に堰を築いて肥水を堰き止め、堰の北にわざと小さな城を築いて敵を誘い込む策を立てた。魏兵は小城を侮って総攻撃をかけたが、崇祖が堰を決壊させて大水を放ち、千を数える魏兵を溺死させ、大混乱に陥らせた。
  • 崇祖はさらに朐山にも伏兵を置き、攻めてきた梁郡王嘉の軍を挟撃して撃退した。
  • 齐主道成は崇祖を「わが韓信・白起」と称え、都督・平西将軍に進め、千五百戸を加増した。以後も下蔡での防戦や淮陽の甬城での戦いなど、李安民・周盤龍父子の奮戦などにより魏軍は再三退けられ、劉昶も南侵を断念した。

使節の往来と道成の崩御

  • 斉の使者車僧朗が魏に赴いた際、宋の亡命者に侮辱され、劉昶の指嗾により暗殺される事件があったが、魏主宏はこれを咎め手厚く送還した。
  • 道成は北伐を志したが老齢と病により実現できず、崩御に先立ち褚淵・王儉に顧命を託し、太子への輔弼と質素倹約の遺詔を残して五十六歳で崩じた(在位四年、廟号太祖)。
  • 道成は倹約を旨とし、宮中の調度も質素に改めさせていた。太子蕭賾が即位し、褚淵・王儉・張敬兒らを重用、亡妃裴氏を穆皇后に追冊し、諸子を各王に封じた。

褚淵の晩節と死

  • 褚淵は宴席で沈文季と口論になり、「淵は忠臣を自任するが、死後どう宋明帝に見えるつもりか」と詰られた。斉主賾がとりなし琵琶を賜ったが、皮肉な下賜であった。
  • 翌朝、暑さを避けて扇を使う淵を功曹劉祥に「寒士に恥じぬ振る舞いだ」と揶揄され、恥辱と憤懣から病を得て四十八歳で死去。
  • 淵の子賁は父の失節を恥じて出仕を拒み、爵位も弟に譲って墓守として一生を終えた。

蕭賾の治世と粛清

  • 永明改元後、垣崇祖は召還され、かつて太祖と密談したことを賾に疑われ、寧朔将軍孫景育の讒言により荀伯玉ともども謀反の罪を着せられ処刑された。
  • 車騎将軍張敬兒も驕奢を極め、妻尚氏の吉夢の逸話が伝わったのち、華林園で急襲され捕縛・処刑、子らも連座した。ただし弟恭兒は蛮地に逃れ、のち自首して赦された。
  • 侍中王僧虔は書に優れ道成と親交があったが、栄爵を固辞し、「張敬兒の例を見よ、高位は禍のもと」と語った。謝超宗(謝霊運の孫)は張敬兒の娘婿であったため、不用意な発言から怨望を買い、賜死に至った。王僧虔は永明三年に病没。

竟陵王子良と学問の場

  • 王儉は僧虔の甥で、太子少傅として学問を講じ、名声を博したが永明七年に三十八歳で没した(諡は文憲)。
  • 竟陵王子良は雞籠山に西邸を開き、范雲・蕭琛・任昉・王融・蕭衍・謝眺・沈約・陸倕ら「竟陵八友」を集め文事を盛んにした。子良は仏教にも傾倒し、東宮でも仏事が盛んになった。
  • 無神論者の范縝は子良と因果応報論を論じ、花が茵席に落ちるか糞坑に落ちるかは偶然に過ぎないと反論、また『滅神論』を著して形神一体説を唱えた。
  • 范雲は子良・太子に対して直言をもって諫めることが多く、太子の農事軽視や斉主の狩猟好みを諫める上表を代筆するなどして信頼を得た。

(詩:王儉の風流も阿附の謀に過ぎなかったと詠む一首)

評語

  • 蕭賾は即位するとすぐに垣崇祖・荀伯玉を殺しており、雄猜の主というべきである。崇祖は御虜の功臣であったのに東宮時代の私怨で誣殺されたのは最も冤罪が甚だしい。伯玉も同様に不当である。
  • 張敬兒の誅殺自体は当然としても、彼を誅した蕭賾のやり方は不当であり、佐命の功臣を非道に殺したことになる。
  • 褚淵・王儉は貳臣として論ずるに値せず、王僧虔は保身の智はあったが璽綬を斉に献じたことは恥ずべきである。
  • 太子長懋兄弟は師を敬い士を礼するが、江左の文人は風流に流れて気節に乏しく、仏事に耽ることも見るべきものがない。