南北史演義第026回 宋の祚を簒い廃主が出宮し、魏帝を弑し淫嫗が専政する (篡宋祚廢主出宮 弒魏帝淫嫗專政)
蕭道成、東府に還り軍権を固める
- 蕭道成は東府に還鎮し、長子の賾を江州刺史、次子の嶷を中領軍・尚書左僕射とし、王僧虔を尚書令、王延之を左僕射、柳世隆を右僕射に据えた。自らは黄鉞を返上して太尉となり、南徐など十六州の軍事を都督、褚淵を中書監司空に加官させた。
- 平西将軍の黄回を召還し、寧朔将軍桓康に命じてその場で縛らせ、罪状を数え上げて斬殺した。
- 驃騎長史の謝朏は清名があり、道成は腹心に引き入れようとして夜な夜な召し語らったが、朏は終始本心を明かさなかった。
王儉の勧進と褚淵の逡巡
- 太尉右長史の王儉は道成の内心を察し、「功高くして賞せられぬ者は古来多い、この地位に長く甘んじられるのか」と迫った。道成は表向き制止しつつ喜色をにじませた。
- 儉はさらに「宋の失徳を安んじられるのは公のほかにない、時機を逃せば人望も身の安全も失う」と説き、褚淵に先んじて話をつけると申し出た。
- 道成が自ら褚淵を訪ね即位の吉夢を語ったが、淵は言葉を濁して同調しなかった。王儉は改めて太傅・仮黄鉞の詔を起草しようとし、道成の側近任遐が「淵は貪生怕死の男、脅せば従う」と請け合い、実際に淵を脅して同意させた。
太傅拝受から相国・斉公へ
- 道成は仮黄鉞・都督中外諸軍・太傅・揚州牧などを受け、表向きは辞退の姿勢を示した。子の賾・嶷・映・晃らも要職に就けた。
- 宋主准(十二歳)が謝氏を皇后に立てたのを機に、道成への加封がさらに進められた。道成は謝朏を左長史に招こうとしたが、朏は魏晋の故事を引いて婉曲に拒んだ。
- 崔祖思の進言で国号を「斉」と定めることが決まり、道成は相国・総百揆・斉公(十郡・九錫)に進んだ。三たび辞退したのち受諾し、王儉を斉尚書右僕射兼吏部とした。
反対派の粛清
- 宣城太守楊運長を免職の上、勒殺。臨川王劉綽(宋室近属)が挙兵を図ったが、密告により道成に露見し、綽とその一族はことごとく誅殺された。
- 武陵王賛を毒殺し、雍州刺史張敬兒を護軍将軍として召還。蕭長懋(道成の孫、賾の長子)を雍州刺史とした。
- 道成は斉王に進爵し、天子の旌旗・金根車・八佾の楽など帝者の儀礼を許され、世子賾は太子と称するようになった。かつての劉裕の簒晋とほぼ同じ道筋であった。
宋主准の禅位
- ほどなく宋主准(在位わずか三年、十三歳)に禅位を迫る詔が下された。詔文は「相国斉王の功徳は日月に並ぶ」と称え、禅譲を促す美辞に満ちていた。
- 道成は三度上表して辞退する体裁を取り、翌日禅位の儀が行われた。
- 宋主准は仏蓋の下に隠れて出てこなかったため、王敬則が兵を率いて捜し出し、板輿に押し込んで宮外へ連れ出した。准は涙ながらに「来世は帝王の家に生まれたくない」と嘆いた。宮中はみな泣いて見送った。
- 侍中謝朏は璽綬の引き渡しを拒み、病と偽ることもせず、そのまま宅へ帰った。代わって王儉が璽綬を受け取り、宋主は東邸へ移された。光禄大夫王琨は宋主の車にすがって号泣した。
斉の建国
- 褚淵・王僧虔らが百官を率いて璽綬を斉宮に奉り、道成はなお謙譲の姿勢を示した末に受禅。璽書には堯舜・漢魏の故事になぞらえた美辞が連ねられていた。
- 太史令陳文建は符命を奏上し、後漢以来「六終六受」の禅譲の法則に合致すると牽強付会した。王儉の勧めで即位の儀注が定まり、建元と改元して即位した。
- 宋主准は汝陰王に降格され、王太后・皇后らもそれぞれ王妃号に格下げの上、丹陽へ移され監視下に置かれた。宋室の諸王も公・県君などに降格され、功臣の子孫の封も大半廃された。
- 褚淵の従弟褚炤は、淵が璽綬を斉に奉じたことを痛烈に批判し、「彦回(淵の字)は若くして名節を立てながら、今やこの有様、いっそ中書郎の頃に病死していれば名士で終われたものを」と嘆いた。淵はこれを聞いて恥じ入り辞官を上表した。
- 奉朝請の裴朏は道成の罪を上表して弾劾し、官を辞して去ったが、道成の追手に殺された。太子蕭賾は謝朏の処刑を求めたが、道成は「彼を殺せばかえって名を成させる」として免死とし、罷免にとどめた。
- 処士何点は諧謔まじりに褚淵・王儉の父がそれぞれ宋の公主を娶っていたことを皮肉る戯れ歌を作った。
宋室の粛清と廃主准の死
- 廃主准は丹陽に移されて一月も経たぬうちに、乱に驚いた衛士に殺され、病死と偽って報告された。道成はこれを咎めず、順帝と諡した。宋は武帝以来四世八主、六十年で滅んだ。
- 道成はさらに劉宋の宗室をことごとく捕らえて誅殺し、老幼を問わず処刑した。ただ劉遵考の子澄之のみ、褚淵の哀願により赦された。劉裕の簒奪時よりもさらに酷薄であったため、斉の国祚は宋より短くなったとされる。
蕭氏の家系と追尊
- 斉は蕭何を始祖と仰ぐ家系で、道成の父承之は宋の右軍将軍として戦功があった。道成は元嘉二十四年、承之の死の頃に弱冠、異相を持つとされ、母陳氏の乳が涸れた際に神人が粥を授ける夢を見たなどの逸話が伝わる。相士は陳氏に「三子のうち鬥将(道成の幼名)が貴を極めるだろう」と予言した。
- 家が貧しく母は井戸端の労働もこなしたが、道成が建康令となってからも母は倹約を旨とした。
- 篡宋後、父承之を宣皇帝、母陳氏を孝皇后に追尊。先立った二人の兄・妻も王・皇后に追贈された。太子賾以下、諸子はそれぞれ豫章王・臨川王・長沙王などに封じられた。
魏の南侵の兆しと北朝情勢の補足
- 魏は梁郡王拓跋嘉に丹陽王劉昶(宋文帝の第九子、魏に亡命)を奉じさせ、壽陽を南侵させた。斉主道成は「既に垣崇祖を豫州に派して備えさせてある」として動じなかった。
- 北朝側の事情として、魏主拓跋弘が太子に譲位した後も北討で戦功を挙げ、馮太后は情夫李奕と歓を尽くしていたが、尚書李訢の獄事に絡み李敷兄弟が誅殺される事件があった。
- 馮太后は情夫李奕を誅された恨みから、上皇拓跋弘に毒を盛って弑逆した(享年二十三、諡は献文帝)。時に魏主宏の延興六年、宋の元徽四年にあたる。
- 馮太后は太皇太后として臨朝称制し、太和と改元。兄馮熙を太師中書監とし、寵臣王叡・李衝らを重用した。
- 丹陽王劉昶は蕭氏の簒宋を知って復讐の兵を求め、馮太后は梁郡王嘉に数万(号して二十万)の兵を授けて南下させ、壽陽が震撼した。豫州刺史垣崇祖はこれに動じず、奇策で迎え撃つ構えを見せた。
(詩:垣崇祖が肥水の水勢を頼みに壽陽を守り抜く奇謀を称える一首)
評語
- 因果応報は仏家のみならず儒家も説くところであり、劉裕の簒晋から四世を経て蕭道成が同じ轍で宋を簒い、零陵王・汝陰王が相次いで非業の死を遂げたのはその報いである。王敬則が汝陰王に「先祖も司馬氏を同様に扱った」と告げた一言は、劉裕自身に問うても答えようがないだろう。
- 魏の馮太后が上皇弘を弑したのもまた北朝の因果応報の一つであり、北朝には後宮の生母を必ず自尽させる悪習があった。蕭道成の姦険と馮太后の淫乱については、本編に詳述した通りで多言を要しない。